document.write(new Date().getFullYear()) ルターの引き起こした宗教改革運動は、ドイツのカトリック教会を二分しただけでなく、改革運動内部にもさまざまの分裂を生み出す結果となった。第一に急進主義者が現れたことである。 iii-2 ドイツにおける宗教改革の進展 . 1517年、神聖ローマ帝国。一人の修道士が教会へぶつけた怒りは人々を動かし、時の技術も味方につけてキリスト教に新しい宗派を生んだ。後に連邦制のドイツほか近代国家の成立にも繋がる、対立と和解の物語。500周年を迎える今年、宗教改革の日(10月31日)はドイツ全州で祝日となる。, 500年前の中世ヨーロッパは、パソコンも携帯電話も、スーパーマーケットもなく、一般の人々の生活は、現代の感覚からは想像もつかないほどに質素だった。公衆衛生や医療も整備されておらず、ペストなどの大流行も人々をパニックに陥れた。地獄や魔女の存在もごく身近に感じられるほど、不確かな世界。当時の階級社会は、トップにローマ・カトリックの教皇が君臨し、各地の王や諸侯たちがそれに続き、農民や商人など一般の人は最下部に属していた。農民らは領主を通して教会に仕え、皇帝の戴冠式がローマ教皇によって行われていたことに象徴されるように、カトリック教会が社会を支配していた。, 人は死ぬと地獄に行き、燃え盛る炎で焼かれてしまうと信じられていた時代。聖職者は神の代理人とあがめられていたが、教会は人々の罪を救うとして「贖宥状(しょくゆうじょう)(免罪符)」を販売しはじめる。不安や恐怖など、人々の心の隙を利用し、生まれ持った罪や犯した罪を救済する方法はこれを買うことのみと宣伝する聖職者も。不満や批判が高まる中、ローマの聖ピエトロ大聖堂などの建設に巨額のお金を必要とした教会は1515年、神聖ローマ帝国(後のドイツ)でも贖宥状を販売。利権を求める王や諸侯らの下心も相まって、教会の権力を支えるこのシステムは次第に肥大化し、腐敗していった。, 驚くべきことに、当時はローマの名の下、礼拝や聖歌など教会で使用される言葉は全てラテン語だった。人々は教会の壁に飾られた絵画やステンドグラス、聖人らの彫刻などを眺め、そこに描かれている聖書の内容を理解しようとするも、礼拝中に何が話されているのかは全く分かっていなかった。, アイスレーベンの農家の家系に生まれたルター。農夫から経営者に転身した父ハンスは息子にも学問の道を選ばせた。ルターは父の期待通り当時の大都市エアフルトで教養学を修める。しかし、法律を学び始めた22歳の夏、帰省旅行の道中で雷雨に遭遇。稲妻とともに投げ倒され、死の恐怖を味わったルターは「聖アンナ! 私は修道士になります、お助けください!」と叫ぶ。当時は聖人を通して神に祈ることが普通だったのだ。激怒する父や止める友人らをよそに、ルターはアウグスティヌス修道院の修道士になり、聖書研究に打ち込みはじめた。, ラテン語だけでなく、ギリシャ語やヘブライ語にまで遡って聖書を読んだルターは、教会や聖人を通さずとも、人は誰でも聖書を読むことで、神に直接祈り、神の慈悲を受けることができると説いた。そのためには聖書をラテン語から民衆の言葉であるドイツ語に訳す必要性を痛感。後に出版したルター訳の聖書はその後近代ドイツ語の統一に影響を与える。また、聖書の理解には時に歌いながら祈ることも大切と考え、簡単なドイツ語の賛美歌(Choral)を作り、自らリュートを演奏して歌った。日本でも有名な「神はわがやぐら」はよく知られる1曲だが、ナチスの行進曲に利用された暗い歴史もある。, 聖書に書いてあることのみを信仰とするべきだ!と確信したルターは、修道士の立場で当時濫用されていたカトリック教会の贖宥状制度を批判。教会は自ら変わるべきだとした。これが、1517年10月31日、ヴィッテンベルクの教会の門に打ち付けられた、宗教改革の大きなうねりに繋がる「95か条の提題」。一方、カトリック教会はルターに自説を撤回するよう迫る。これを拒否したルターは1521年、ついに教会を破門される。同年ヴォルムス帝国議会で神聖ローマ皇帝カール5世に召喚を受けるが、ここでも自説の撤回を拒否し、帝国追放を宣言される。その帰り道、ルターを支持していた有力諸侯の一人、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)に保護され、居城であるヴァルトブルク城にて新約聖書のドイツ語訳を完成させた。, 腐敗する権力に立ち向かったルターの怒りは人々の共感を呼び、宗教改革の勢いは各地に広がった。1517年にヴィッテンベルク大学の教授に就任したフィリップ・メランヒトンは、ルターの思想の体系化に尽力。フリードリヒ3世は皇帝カール5世誕生の立役者であったこともあり、ローマからのルターの引渡しにも応じずルターを匿った。北部ドイツ語を味方に、ハンブルク、リューベック、コペンハーゲンなど北部の各都市を回り、ルターの教えを広めたのはヨハネス・ブーゲンハーゲン。ヴィッテンベルクを拠点に宮廷画家としてフリードリヒ3世に仕えたルネッサンスの画家ルーカス・クラナッハ(父)は、数多くの絵画を通してプロテスタントの宗教精神を伝えている。, 忘れてならないのは、危険を顧みず修道院を抜け出し、ルターを追い掛けた修道女、カタリナ・フォン・ボラ。聖書に根拠はないものの、肉体的欲望は罪であるとされ、聖職者の結婚など到底認められなかった時代、二人は結婚し6人の子どもに恵まれた。一躍有名になったヴィッテンベルクには各地から学者が集まった。ルターの自宅にも次々と論者が訪れ、カタリナは女主人として彼らの宿泊や食事などを世話しながら一緒になって日々議論した。, それまで書物は手書きによる書き写しか木版印刷が主流だった。しかしヨハネス・グーテンベルクが1450年頃発明し、実用化が進んでいた最新技術の活版印刷がルターの教えを広めるのに大きな役割を果たした。各地の印刷所は「95か条の提題」を始め、ビラや冊子をどんどん刷り、これらは飛ぶように人の手に渡った。ラテン語で書かれていた「95か条の提題」もすぐにドイツ語に訳され、ほんの2週間でヨーロッパ中に広がった。神聖ローマ帝国で1500万人いた人口の大半が読み書きのできなかった時代に、ルターの聖書は100万部も印刷され、大ベストセラーに。印刷の技術がなかったらルターの思想はここまで一気に広がることはなく、宗教改革も起こり得なかっただろう。人々が歌った、ルターの賛美歌にも乗ってルターの思想は拡散された。こうしてルターは庶民の共感を得ただけでなく、ハンザ同盟の都市やドイツ国内の有力諸侯からの融資も得た。一方で教会は危機感を募らせ、両者は対立を深めていく。, ルターの教えは重い重税に苦しんでいた農民に希望を与えた。農民たちは農奴制の廃止など「12か条の要求」を訴え中南部で立ち上がった(ドイツ農民戦争)。しかし諸侯軍に敗れ、反乱を主導した聖職者のトマス・ミュンツァーは拷問の末処刑、10万人が犠牲となった。当のルターは諸侯に保護されている立場から諸侯軍に味方し、同地での信頼を失うことに。南部ではその後カトリックが優勢となった。, 国外からの脅威もあり、宗教問題に決着を付けるため、皇帝カール5世は1530年、アウグスブルク帝国議会を開いた。破門されたルターに代わり、盟友メランヒトンがプロテスタントの最初の信仰告白「アウグスブルク信仰告白」を執筆。ルター派の主張をしつつもカトリック教会への批判を抑えた内容だったが認められなかった。不満を持つ諸侯らはプロテスタントとして結束を深めた(1531年、シュマルカルデン同盟)。その後1555年にようやくアウグスブルク帝国議会でルター派が容認され(アウグスブルクの和議)、都市や領主に宗教の選択権が認められることになった。, 1555年のアウグスブルクの宗教和議でルター派のプロテスタントはカトリックと並ぶ存在に! ルターはその9年前にこの世を去っていたが、権力への怒りから火が付いた、「聖書に書いてあることのみを信仰とする」との信念は実を結んだ。だが、まだ市民一人一人に信仰の自由が与えられていたわけではなく、どちらの信仰を選ぶかは各都市や領主の決定に従わなければならないことに不満も残った。またカトリックの対抗宗教改革の動きや魔女狩り、宗教裁判も激しさを増した。各地でカトリックとプロテスタントの領邦間の争いも始まり、その他の権力紛争も相まってヨーロッパ中を巻き込んだ30年戦争(1618-1648)に発展。1648年のヴェストファーレン(ウエストファリア)条約でやっと最終的な決着を迎えるとともに、この条約は連邦制のドイツ始め、近代の国民国家の礎となった。, ルターが作った賛美歌「神はわがやぐら」は、1724年、バッハが宗教改革を記念してカンタータ80番に取り入れるなど、後世の教会音楽やクラシック界に大きな影響を与えた。アウグスブルク信仰告白から300年の1830年、メンデルスゾーンはルターの「宗教改革」をタイトルに交響曲第5番を作曲。ドイツの賛美歌「ドレスデン・アーメン」が用いられているほか、フィナーレで「神はわがやぐら」が響く。, 現在も宗教間の対立や争いは各地で続いている。一方で、第2次世界大戦後、キリスト教の教派を越えた和解や結束を目指すエキュメニカル運動(Ökumenische Zusammenarbeit)も始まった。デュッセルドルフの旧市街にあるネアンダール教会は1684年に初めてこの地で建設が認められたプロテスタント教会。角を曲がった場所に、ほぼ同時期に建てられたカトリックの聖アンドレアス教会が並んでいる。ネアンダール教会のディルク・ホルトハウス牧師(Pfarrer Dirk Holthaus)は年に2回、クリスマスとイースターの前に、聖アンドレアス教会の神父と交代して、カトリックの人々を前に説教をしている。ホルトハウス牧師は語る。「ルターも後年そうだったが、プロテスタントの教会もユダヤ人を排除し過ちを犯した。そしてこれは戦争にもつながった。近隣教会の協働エキュメニカル運動は両者の壁を取り払うことへの試みだ。過去の過ちを反省し、世界平和を考えるために」, ※時間や内容が変更される場合もございますので、お出かけの際はあらかじめご確認ください。, ルターが95か条の提題をヴィッテンベルクの教会の門に打ちつけた1517年当時の風景360℃再現。ドイツ人アーティスト、ヤデガール・アシシの巨大なパノラマアートに足を踏み入れれば、中世の時代に迷い込んだ気分に。, 2017年12月31日(日)まで 10:00~18:00 11ユーロ(割引9ユーロ、子供4ユーロ), WITTENBERG 360 Lutherstr.42 06886 Lutherstadt Wittenberg www.wittenberg360.de, 賛美歌をドイツ語で歌う喜びを民衆と分かち合ったルター。今年は、ドイツ各地で参加型の賛美歌プロジェクトが企画されている。ルターの生涯を1000人のコーラスと、ポップなミュージカルで楽しめるコンサート。, 3月11日(土)ハレ Gerry-Weber Stadion 3月18日(土)ミュンヘン Olympiahalle 6月25日(日)ジーゲン Siegerlandhalle 8月26日(土)ヴィッテンベルク Schlosskirche 9月23日(土)、24日(日)ヴィッテン Saal bau 10月29日(日)ベルリン Mercedes-Benz Arena, ドイツ・ルネッサンス期の巨匠ルーカス・クラナッハ(父)の作品200点以上が並ぶ展覧会。ルターを保護したザクセン選帝侯に仕えた絵師で、ルターの聖書の挿絵も描いた。彼の絵画が現代美術に与えた影響を見る。, 4月8日(土)~7月30日(日) 11:00~18:00、木~21:00、月曜休館 12ユーロ(割引9.50ユーロ)、 土日祝14ユーロ(割引11ユーロ), Museum Kunstpalast Ehrenhof 4-5 40479 Düsseldorf www.smkp.de, ドイツ歴史博物館が企画した展覧会では、500年前に始まったプロテスタント運動が、現代に与えた影響を追う。欧州や北米、世界各地で文化と宗教の対立が浮き彫りになった。, 4月12日(水)~11月5日(日) 10:00~19:00、火曜休館 12ユーロ(割引8ユーロ)、16歳以下無料 3つのナショナル・エキシビジョンの共通券24ユーロ, Martin-Gropius-Bau Niederkirchnerstr. はじめに 宗教改革は近代ヨーロッパを形作った出来事として、ルネサンスと共に重要視されている運動です。 このテキストでは宗教改革が何故起こり、そしてどのような影響を及ぼしたかを見ていきましょう。 なぜ「改革」が必要だったのか? この時代、キリ 500 Jahre Protestantismus in der Welt, 11月10日、アイスレーベンで生まれる。翌日の聖マルティンの日に洗礼を受け、マルティンと名付けられる, 22歳、父の教えに従い大学法学部進学、落雷を受け、アウグスティヌス修道院に入り修道士に, 34歳、「95か条の提題」をヴィッテンベルクの教会の門に打ち付ける(10月31日), 37歳、『キリスト教界の改善について』『キリスト者の自由について』など宗教改革的著作を精力的に出版。教皇庁は破門脅迫の大教勅を発する, 38歳、教皇レオ10世から自説の撤回を求められ、拒否。教会を正式に破門される。皇帝カール5世に与えられたヴォルムス帝国議会の場でも撤回を拒否したため、帝国追放を宣言される。帰り道、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の居城ヴァルトブルク城で保護される, アウグスブルク帝国議会でカトリックとルター派プロテスタントの和議、各諸侯らが決める教派をその領邦内の教派とする教派属地権が決まる. 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 1483年11月10日アイスレーベンに生まれる。農民出身の父はマンスフェルトで鉱夫になり、のちに鉱山業を営む。ルターは単純厳格な両親によりカトリックの信仰を学び、マクデブルクとアイゼナハで学校教育を受ける。1505年エルフルト大学で文学得業士となり、さらに法学部に進学する。同年旅行中に雷雨に突然襲われ、死の恐怖のため修道士になる誓願をたて、2年後に父の意志に反して修道院に入る。オッカム主義の神学教育を受け、1508年、当時新設のウィッテンベルク大学で一般教養科目を、さらに1512年神学博士となってから聖書学を担当する。この間、彼は自己の善行をもってしても心に平和を得ることができずに、己の罪に絶望するが、ただ信仰によってのみ神から授与される「神の義」を発見する。これが宗教改革的認識とよばれる新しい神学の出発点となる。このような認識に基づいて聖書の講義を行い、罪の赦しのために制定された悔い改めの礼典に疑問を抱き、ドイツのザクセン地方に販売され始めていた教皇の免罪証書(免罪符)について学問上の討論を開く目的で、1517年10月31日、有名な「九十五か条の論題」を当時大学の掲示板でもあった城教会の扉に提示した。この論題はたちまち全ドイツに広まり、宗教改革運動の発端となった。, 改革運動の初期はルターの人格を中心にして展開した。重要な事件をあげると、彼が所属する修道会の総会が1518年にハイデルベルクで開かれ、討論がなされ、アウクスブルクで教皇の使節カエタヌスの審問を受け自説の撤回を求められたが拒否し、1519年にはライプツィヒで神学者エックと討論し、教皇も過ちを犯しうると認めたため、ローマ・カトリックと分裂し、1520年教皇から破門勅令を受けるも焼き捨てた。1521年ウォルムスの国会に召喚され、自説の撤回を拒否したため、帝国追放処分を受けた。しかしザクセン選帝侯によりワルトブルク城にかくまわれたが、急進的革命家の騒擾(そうじょう)を抑えて福音(ふくいん)主義教会の確立に努める。その間、ドイツ農民戦争(1524~1525)に巻き込まれ、ヒューマニストのエラスムスと自由意志論争をなし、さらにマールブルク会談では聖餐(せいさん)について一致が得られず、スイス宗教改革者ツウィングリとも決裂し、プロテスタント同盟の夢が破れた。1530年アウクスブルクの国会で宗教問題がふたたび討議され、メランヒトンが代行となり、「アウクスブルク信仰告白」を提出したが、皇帝との対立は激化した。ルターは最後まで説教、講義、勧告、著述に携わり、貴族たちの紛争和解のため郷里アイスレーベンに赴き、1546年2月18日同地で病を得て死去した。享年63歳であった。, ルターの著作は空前絶後のもので、600ページ以上の大冊が100巻を超えている。そのなかで改革文書として重要なものをまずあげると、宗教改革の全プログラムを提示した『キリスト者の身分の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に』(1520)、カトリック教会の礼典について批判した『教会のバビロン捕囚』(1520)、および信仰と愛にたつ自由な人間の本質を論じた『キリスト者の自由』(1520)がある。またエラスムスとの論争で神の恩恵の絶対性を力説した『奴隷意志論』(1525)や、皇帝への抵抗権を説いた『愛するドイツ人への勧告』(1531)、教義を平明に説いた『大教理問答書』(1529)、信仰から生じる倫理を解明した『善いわざについて』(1520)などが優れている。, 次に、彼の本業である聖書講義は改革文書の母胎となっている重要なものであり、初期では「詩篇(しへん)」「ロマ書」「ガラテヤ書」「ヘブル書」と続き、完成期に入ると「ガラテヤ書」と「創世記」の講義がもっとも重要である。とくに「ロマ書」講義においては、宗教改革的認識にたつ思想がみごとに結実し、オッカム主義との対決のうちに信仰義認論が確立されている。, ルターの思想は、プロテスタントの三原理といわれているものに要約されている。それは「信仰によるのみ」「聖書のみ」「万人祭司性」であり、教皇主義者をさしていった「ローマ主義の三城壁」を攻撃するためにたてられたものである。そのなかでも「信仰によるのみ」の原理こそルターの信仰義認論を表明するもっとも重要なものである。彼はオッカム主義に従って義認のために諸々の準備をし、善いわざの功績を積んで救済に達しようと苦闘したが、「神の義」というのは、神が私たちに求める正しさではなく、信仰によって神が授与したまう正しさであることを知り、それがキリストの恩恵として与えられていることを理解した。こうして行為による義認に対決する、「信仰によるのみ」の義認が説かれた。したがって、もはや教会の授ける「免罪」はまったく不要であり、「悔い改め」も儀式ではなく、「心の転換」を意味すると主張された。この新しい神学は聖書を最高の権威とみなし、聖書に立ち返って宗教を改革してゆくもので、中世カトリック教会が定めた七つの礼典(洗礼、堅信(けんしん)、聖餐、悔い改め、終油(しゅうゆ)、叙任、結婚)も、洗礼と聖餐のほかは聖書的根拠を欠くものとして否定された。なお、ルターは、聖餐のパンとぶどう酒のなかに神の言と信仰によりキリストが現在すると説いたのに対し、スイスの宗教改革者ツウィングリは、聖餐はキリストの体を象徴しその受難を記念して行うと主張したため、その他の点では合意に達していたにもかかわらず、両者は分裂し、ヘッセン方伯フィリップPhilipp von Hessen(1504―1567)によるプロテスタント同盟は成立しなかった。, 『徳善義和他訳『ルター著作集』(第1集全12巻・1963~ /第2集全12巻・1985~ ・聖文舎・リトン)』▽『石原謙訳『キリスト者の自由』(岩波文庫)』▽『ローランド・ベイントン著、青山一浪・岸千年訳『我ここに立つ――マルティン・ルターの生涯』(1954・ルーテル社/1962・聖文舎)』▽『L・ピノマ著、石居正己訳『ルター神学概論』(1968・聖文舎)』▽『金子晴勇著『ルターの宗教思想』(1981・日本基督教団出版局)』, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …1293年都市法が認められる。16世紀初めにルターが宗教改革運動を興した地として知られ,〈ルターシュタット(ルターの町)〉とも呼ばれる。ルターとメランヒトンはともに,1502年ザクセン選帝侯フリードリヒ賢侯により創設されたウィッテンベルク大学の教授であり,彼らを慕って多くの学生がこの町に集まった。…, …一方,諸侯の側は,スペイン王でもあるカールの権力増大をおそれ,援助の見返りに,皇帝不在の期間ドイツの政治を指導する帝国統治院の設置を認めさせた。続いて,前年ローマ教皇から異端として破門の宣告を受けた宗教改革者,ルターの喚問が行われた。この措置は,事情聴取なしに帝国としての有罪判決を下すべきでないとする,ザクセン選帝侯らの働きかけによるものである。…, …その場合,人間の側での条件や段階を表すために功績や恩寵の種類をあげることになる。ルターはそうした考え方を排除して,救いの無条件性を強調し,キリストへの告白と悔改めによる義認や,〈義人にして同時に罪人〉ということを語った。もっともプロテスタントの中でも,義認よりも聖化に重点をおく考えもあり,カルビニズムの聖職者重視や,敬虔主義における回心と聖潔の強調の中にそれが見られる。…, …目標のピンが菱形状に9本並んでいることからナインピンズninepinsと呼ばれ,ヨーロッパでは現在も愛好者が多い。古代から中世のヨーロッパ諸国で流行した1~17本のピンを倒すローマ式ボウリングを,ドイツの宗教改革家ルターが9本のピンに統一したルールを作ってさらに普及した。従来の戸外にかわって屋内に板張りレーンを敷き,トックリ型のピンを並べ木製ボールをころがす。…, …ローマ・カトリック教会からは,宗教改革によってプロテスタント教会が分かれ出た。これはルター派教会と改革派教会,およびスコットランドの長老派教会をもっている。イングランドでは国民教会に変わったアングリカン・チャーチに対してさらにピューリタン革命があり,そのあと多くの教派が興るようになった。…, …ただし,他の宗教にも数多くの宗派宗旨があるように,キリスト教にも,カトリックとプロテスタントの二大教会の別があり,それぞれの内部に数多くの教派があって,音楽的伝統も一様ではない。芸術的に見た場合,それらの中でとくに重要なのは,パレストリーナやベートーベンのミサ曲によって代表されるローマ・カトリック教会,バッハのカンタータや受難曲によって代表されるルター派のドイツ福音主義教会,パーセルのアンセムやヘンデルのオラトリオによって代表される英国国教会,ボルトニャンスキーの教会コンチェルトによって代表されるロシア正教会などである。 イエス・キリストの生涯を書き記した新約聖書の福音書には,ただ1ヵ所だけ音楽に言及した個所がある。…, …宗教改革者ルターの主著の一つ。みずからの信仰が聖書に基づくものであって,教会の伝統にも反しないことを示すため1520年教皇レオ10世に献呈され,また民衆のためにも書かれた。…, …(4)宗教改革者のキリスト論は,キリストの業を歴史と状況に即してとらえるカトリック教会の伝統の中で起こっている。ルターは説教を神のことばの遂行として重視し,これに聖礼典と等価の位置を与えて,その中で起こるキリストとわれわれとの一致を〈喜ばしい交換〉と呼んだ。それはキリストの義がわれわれに,われわれの罪がキリストに帰せられるということで,キリストの代理的な贖罪を説き,かつこれをキリストの祭司職の遂行と見たのである。…, …しかし個々の罪に関しては意志の働きがあることを否定せず,そこで原罪とは〈意志の腐敗〉にほかならないとも言われた。ルターは原罪を神に対する人間の〈むさぼり〉に見た。これは性欲を原罪とみなす考え方よりもいっそう強く罪と死,罪と苦難の結合を語るもので,《創世記》3章の見方に近いと言える。…, …ドイツ福音主義教会の会衆賛美の歌。宗教改革者ルターの,特別な音楽的素養をもたない一般会衆にも自国語で歌える礼拝の歌を与えようという意図を出発点として起こり,16世紀から18世紀にかけて,多数の曲が作られた。ドイツ語の抑揚を生かした素朴で力強い旋律と旋法的な性格の強い節回しが特徴で,楽曲形式は中世のミンネジンガー以来ドイツ歌曲にとって一つの基本形式となったAABのバール形式(バールBarという詩型が基本で,リズムと押韻が呼応しあう二つの前句AAと後句Bからなる)によるものが多い。…, …中世身分制社会では,自由とは基本的には特権(たとえば貴族の自由,都市の自由など)を意味したのであり,このような身分的諸特権との闘争過程から,自由で平等で自律的な個人という観念が,理念的に形成されてきたのはそれほど古いことではない。宗教改革期にルターは〈キリスト者の自由〉として個人の自由を主張したが,それはあくまでも信仰の世界に限定されたものであり,しかも彼は〈奴隷意志〉論者であった。エラスムス,カステリオなどの人文主義系の〈自由意志〉論者には,個人の自由への萌芽がみられるが,それもまた,身分制社会の壁をのりこえるほど強力な主張ではありえなかったといえよう。…, … この考えはとくに,ゲルマン人の自由意識を尊重しつつ教会と国家の両立をはかった中世カトリック教会の所産であったとみなされる。ルターが《キリスト者の自由》(1520)の冒頭で,信仰の自由は支配者と奴隷のいずれの側でも成立すると宣言したのもここから来る。しかしその命題は,伝統的な教会や国家の拘束を排するルネサンス人の意識にあわず,エラスムスとの間に自由意志をめぐる論争をひき起こした。…, …フランスのルフェーブル・デタープル,ネーデルラント出身のエラスムスらが掲げたこのキリスト教的ヒューマニズムの理念は,古典研究を通じての人間形成という立場から,やはり聖書を重んじ,キリスト信仰を原初の純粋な姿に立ち戻らせようとする志向において,宗教改革に大きな推進力を提供した。[ルターの福音主義] ドイツ中東部の領邦,ザクセン選帝侯国の首都ウィッテンベルクで,アウグスティヌス会の修道士であり大学の神学教授であるマルティン・ルターが,1517年10月31日,贖宥の効力に関する〈九十五ヵ条提題〉を公にしたことが,宗教改革の口火となった。深い罪意識と鋭敏な良心から,律法の遵守や善き〈行い〉(功績)による救いの道を説くカトリシズムの教義に根本的な疑いをいだいた彼は,オッカム神学の研究や上司シュタウピッツを通じての神秘主義との接触,しかし何よりも〈神の言(ことば)〉としての聖書への沈潜の中で,救いの問題の新たな神学的理解へと到達した。…, …ドイツのアウグスティヌス隠修修道会士。宗教改革者ルターの師。ザクセンの貴族の出で,ケルンとライプチヒで学び,1490年ころミュンヘンで修道士となる。…, …神学と哲学,信仰と理性とが階層的調和にもたらされることによって,信仰の真理の学問的基礎づけとしての神学は完成され,ローマ・カトリック教会の神学の支柱となった。 ルターによる宗教改革はスコラ神学に対する神学方法上の革新でもあった。哲学的思弁から神学を解放して,ひたすら〈神の言〉に基礎づけるキリスト論的神学が主張された。…, …カトリックでは聖職者(神父,尼僧)に対しては禁欲と独身を要求し,信者に対しては貞潔を求めている。しかし,宗教改革家ルターは,性に対する人間の欲望をきわめて自然で強いものとみ,独身主義をむしろ危険なものと考えた。一方カルバンは,夫婦の関係を神聖視し,その他の不倫な性行動を罪とみなした。…, … 聖体論争は宗教改革において改革派のあいだの論争問題となった。ルターは,キリスト教の秘儀性を否定せず,聖餐における聖変化を認めたうえで,カトリック教会の〈全質変化〉の教義に反対し,パンとブドウ酒の形質は残存すると考えた。これを〈実体共存説〉という。…, …それゆえ,絶対に聖なるものに対してわたしは滅びるという自覚が,罪意識の原点である。《詩篇》22篇の〈われは虫にして人にあらず〉,《ヨブ記》16章・19章,ルターのいう〈震撼させられた良心〉,R.オットーのいう〈戦慄すべき神秘〉がこれにあたる。そのため,キリスト教の罪観念は一般的価値としての善悪の観念によっては測られないものがある。…, …ルネサンス時代には,ドイツ音楽はフランドルの高度の多声技法とイタリアの輝かしい音響効果の世界から多くのものを学び取った。他方この時代の宗教改革とルターの聖書のドイツ語訳が,ドイツの音楽と文化の上に及ぼした大きい影響を忘れることはできない。しかしその成果が現実に現れるのは次の時代のことである。…, …このような状況のもとで,ドイツ語による文学活動はそれまでもっぱら聖職者によって担われていたのに対し,この時代,騎士階級が文学活動の新しい担い手として登場し,ドイツ語による多くの作品を残すことになる。まず,ネーデルラント出身のフェルデケのハインリヒ(ハインリヒ・フォン・フェルデケ)をはじめとして,アウエのハルトマン(ハルトマン・フォン・アウエ),シュトラスブルクのゴットフリート(ゴットフリート・フォン・シュトラスブルク),エッシェンバハのウォルフラム(ウォルフラム・フォン・エッシェンバハ)のような宮廷叙事詩人,ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデのような恋愛歌詩人が現れるが,詩人たちは,各地方の間の文化的交流の中で,自己の作品ができる限り広い地域で読まれ,理解されるように,狭い地域に限られた方言的な要素を避けるようになる。その結果,12世紀後半から13世紀にかけ,ドイツ南部を中心に,超地方的で比較的均一な文学語が成立する。…, …ミュンツァーは1525年3月ミュールハウゼン市の市会を改組して〈永久市参事会〉を設立し,4月下旬ミュールハウゼン市民・農民合同団を成立させ,ほかにフルダ修道院領,ランゲンザルツァ,エルフルトなどに農民団が結成され,多くの修道院,城砦を焼き払った。 ルターは,南西ドイツの農民蜂起に対して《シュワーベン農民の十二ヵ条に対する平和勧告》を書いて同情的態度を示したが,チューリンゲン農民の背後に〈革命の神学者〉ミュンツァーがいると知るや,《農民の殺人・強盗団に抗して》を著して,断固弾圧すべしと説いた。この勧告にこたえて,ヘッセン方伯フィリップ,ザクセン諸公らは軍隊を総動員し,5月15日フランケンハウゼンの戦で農民団を撃破し,5月26日ミュールハウゼン市陥落,5月27日ミュンツァー斬首をもってチューリンゲンの一揆は終わった。…, …[抒情詩のモティーフ] 抒情詩ではトルバドゥールの様式を受け継いだミンネザングが成立し,貴婦人への愛の奉仕を最高の理念とする歌が多く作られた。ラインマルReinmar von Hagenauを頂点とする盛時のミンネザングは,この愛を神への愛にまで結びつけようとしたが,一方ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデは身分の低い娘を登場させて世俗の愛をうたい,あるいは政治的発言を織り込んだ格言詩をつくり,ナイトハルト(ロイエンタールの)などにいたると,騎士と農民の間の力関係の混乱がパロディの形をとって農村を舞台にした詩に反映されることになる。他方宮廷詩とは別に,《カルミナ・ブラーナ》のように,遍歴学生や農民によって歌われていた巷間の歌がたくましく育っていた。…, …しかしキリスト教の一群を総称する客観的概念として盛んに用いられるようになったのは,20世紀に入ってからである。 現在使われている意味でのプロテスタンティズムは,信仰,教義ないし思想,共同体の性格などの諸点において多様なキリスト教現象を含んでいるため厳密に規定することは難しいが,その起源と基本的性格とは,ドイツのルターによって開始され,スイスのツウィングリ,フランスのカルバンらによって強力に推進された宗教改革運動に発するものである。それゆえこの概念は特にローマ・カトリック教会との対比を強く含意している。…, …これにはもちろん例外があり,エラスムスの《格言集》などは16世紀の最初の数十年間に,各版1000部を刷って34版を重ね,同じ著者の《対話集》は,存生中に2万4000部を印刷している。ルターの《ドイツ国民のキリスト教貴族に与う》は,発行後5日間に4000部を売りつくした。これらの数字は,1900‐30年までの30年間に,イギリス聖書協会が聖書2億3700万部を発行したのに比べるとものの数ではないが,活字印刷術が創始されてまだ100年にもなっていない事実を考え,さらにその前のながい手写本時代を顧みると,驚異的な記録といわなければならない。…, …その就任講演〈青年教育の改善〉はこの大学ばかりか他の大学の教育改革にとっても指標となった。その地で直ちに宗教改革者ルターの信仰と神学の影響下に入り,生涯その協力者となる。19年7月のライプチヒ討論のさいはルターを助け,夏からはローマ書の講義を始め,それに基づいて21年《神学総覧》初版を出版する。…, …贖宥(しよくゆう)状,贖宥符とも訳される。これがもたらす信仰上の弊害をルターが〈九十五ヵ条提題〉で攻撃したことが,宗教改革の口火となった。中世カトリック教会では,教皇は使徒ペテロの後継者,地上におけるキリストの代理者と考えられ,そこから,キリストの贖罪の業(わざ)は,人々の救霊をもたらす偉大な〈功績〉として,あり余るほどの〈財宝〉をローマ教会にゆだねたという信仰が生まれた。…, …キリスト教国家の理念というものがそれである。しかしながら16世紀には北ヨーロッパでルターに始まる宗教改革が進行し,互酬関係を教義のなかに取り込んだカトリック教会の救済理論を打ち破った。現世で善行を積めば来世での救いが保障されるという教義はルターによって大きな変更を加えられた。…, …1519年7月,ザクセン公ゲオルクの手配で,宗教改革者ルターとその反対者エックとによりライプチヒで行われた神学討論。はじめルターの同僚カールシュタットが1週間にわたりエックと討論したあと,ルターが1週間エックと討論した。…, …教会財政の紊乱(びんらん),聖職者の退廃を原因として教会の勢力が衰退しだし,これに代わって絶対王政が確立されはじめる。ルターやカルバンなどの宗教改革の指導者が,婚姻=サクラメント理論に対して批判を加え,離婚を認めるべきことを説き,婚姻事件につき教会裁判所には管轄権限がないことを主張した。 このように,教会婚姻法に対する批判が勢力を拡大するに伴い,婚姻事件についての教会裁判所の独占的管轄権に対しても世俗裁判所によって異論が唱えられ,教会裁判所と世俗裁判所との管轄権争いの事件が増加した。…, …宗教改革者ルターによって,いずれも1529年に著された二つの教理問答。キリスト教会初期以来の信徒信仰教育の伝統を,聖書中心,神中心,信仰中心の宗教改革的立場により改めて生かして書かれた。…, …宗教改革者ルターは,キリスト教信仰が聖書のみによるべきことを主張したが,1521年5月から,ワルトブルク城に保護されていた9ヵ月間のうちの10週ほどをかけて,新約聖書を,ギリシア文を参照しつつ,当時一般的だったラテン語訳《ウルガタ》からドイツ語に翻訳した。これはやがて22年9月ウィッテンベルクで,当時としては多い部数である3000部が出版されたので,《9月聖書》と呼ばれる。…, …その後マイセン辺境伯ウェッティン家Wettinerの領有に移り,15~18世紀はザクセン選帝侯領に属した。1521~22年,ルターがここにかくまわれ,新約聖書を独訳した。1714年以後,ザクセン・ワイマール領。….