註④ 福音とは、イエス・キリストによってもたらされた神からの喜びの使信のことである。パウロは、福音の内容をイエス・キリストの死と復活を結びつけて「救い」の出来事と説いた。パウロ的な福音概念を継承したのがルターであり、彼は聖書に書かれたイエス・キリストの教えのみを福音とし、教会や聖職者の言葉ではなく、福音だけを信仰の拠り所とすべきであると主張した(福音主義・聖書主義)。したがって、福音主義という用語は、宗教改革の立場をとる考え方として使用されることが多い。 カトリック国でありながらフランスわどーしてプロテスタント側を支援したのですか?教えて下さいΣ(・ ・;)神聖ローマ帝国が強大になることをフランスが望まなかったからです。三十年戦争は宗教戦争という面に注目されがちです。たしか  エドワード六世Edward VI(在位一五四七~五三)がわずか九歳の幼さで王位に就いた一五四七年、サマセット公エドワード・シーモアEdward Seymour, 1st Duke of Somersetは王室の実権を掌握したが、その間、一五四九年と一五五二年の二度にわたって祈禱書が作成され、イングランド国教会の脱カトリック化が進んだ。しかし、一五五二年始めにはエドワード・シーモアが王権壟断と反逆の科で処刑され、次いでノーサンバランド公ジョン・ダドリーJohn Dudley, 1st Duke of Northumberlandが実権を奪った。やがて病弱な国王の死期が近いと察知したノーサンバランド公は、自分の六男ギルフォードをエドワード六世の従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイJane Greyと結婚させて彼女を次の国王に据えようと画策した。死の床にあったエドワード六世は、結局それを了承して七月六日に亡くなった(享年一五歳)。ノーサンバランド公は王位継承権者メアリの身柄を拘束しようとしたが、身の危険を察知したメアリはノーフォーク公トーマス・ハワードThomas Howard, 3rd Duke of Norfolkに匿われロンドンを脱出する。七月一〇日にはジェーンがロンドン塔に入城して王位継承を宣言したが(ジェーン女王〔在位一五五三年七月一〇~一九日])、一方のメアリも一三日にイングランド東部のノリッチNorwichで即位を宣言した。やがて多くの支持者がメアリのもとに集結し、ノーサンバランド公の軍隊を撃破した。こうしてロンドンに呼び戻されたメアリは改めて「正統」の女王メアリ一世Mary I (在位一五五三~五八)の即位を宣言し、ノーサンバランド公とその子ギルフォード、そしてジェーン・グレイをいずれも反逆罪で斬首刑に処した。 フランス王家とローマ教皇は、次第に政治運動化しつつあったジャンセニスムを禁圧し、運動自体はフランス革命前には消滅したが、思想的な影響はその後も長く残った 。 フランス革命辺りから、啓蒙思想が台頭し宗教から距離を置く勢力が登場した。  さて、スペイン王家の血を引くメアリ一世は敬虔なカトリック信者であり、彼女が結婚相手として選んだのは従兄の子にあたる西王太子フェリペ(後のフェリペ二世)であった。しかし、フェリペはメアリ一世より一一歳も年下であり、カトリックの宗主国のような国家の王太子であったから、この結婚には反対する者も多かった。だが、一五五四年七月に結婚式が挙行され、フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられた。翌五五年、メアリ一世は父ヘンリ八世以来の宗教改革を覆し、イングランド王国をカトリック世界に復帰させた。彼女はプロテスタントを迫害し、女性や子どもを含む多くの人々を処刑したことから「血まみれのメアリ」Bloody Maryと呼ばれている。一五五六年、夫フェリペはスペイン王フェリペ二世Felipe II(在位一五五六~九八)として即位するために本国に帰国し、一年半後にはロンドンに戻ったものの、わずか三か月後には再びスペインに帰国して二度とメアリと会うことはなかった。メアリ一世は五年余の在位の後、一五五八年一一月一七日、卵巣腫瘍が原因で他界した。 世も死去したため、カトリーヌは親戚を転々としながら育つことになった。そのためカトリーヌ本人は、 父が公爵で母がブローニュ女伯爵であるにもかかわらず、比較的低い出自となった。しかし、一五二三年に一門のジュリオ・デ・メディチ枢機卿が教皇クレメンス七世(在位一五二三~三四)に選出され、翌二四年にはマドレーヌの姉アンナが子どものないまま没したため、オーヴェルニュ伯領、ブーローニュ伯領、 ラ・トゥール男爵領がマドレーヌの一人娘カトリーヌに引き継がれることになった。一五三三年、教皇と仏王フランソワ一世の間で縁組交渉がまとまり、一〇月二八日、アンリ王子とカトリーヌはマルセイユで盛大な結婚式を挙げたのである。新婚の二人はともに一四歳の幼さで、カトリーヌは持参金一〇万デュカやオーヴェルニュ伯領などの領地、教皇から贈られた一〇万デュカ相当の宝石のほか、お供一〇〇〇人を伴って嫁いだ。しかし、夫アンリの寵愛は一八歳年上の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエ夫人Diane de Poitiersに独占されていたと言われる。 近藤和彦前掲論文二一頁、遅塚忠躬「経済史上の一八世紀」(『旧岩波講座 世界歴史⒘』所収第一論文)四四~五四頁各参照。なお、グラフは高校教科書『世界史B』(東京書籍)二一六頁より引用。 註⑫ 一六世紀のフランスでは、学芸や生活習慣におけるイタリア化italianisationという形でルネサンスが進行する。一五一五年、ルネサンス君主の典型と言われるフランソワ一世はボローニャで開催した教皇レオ一〇世との和平会談の際にイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci(一四五二~一五一九)を招き、翌年暮れにはアンボワーズ城近くのクルー荘園を与えてその居館(クロ・リュセChâteau du Clos Lucé)に住まわせた。レオナルドは一五一九年五月二日にこの邸宅で亡くなるが、最晩年の二年半ほどはフランソワ一世から年金を受け取り、ミラノ貴族フランチェスコ・メルツィFrancesco Melziらとともに暮らした。田村秀夫『ルネサンス 歴史的風土』(中央大学出版部)一九二~二〇六頁参照。ガリカニスムについては、拙稿「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(下)」(水戸一高『紀要』第五三号)参照。 月二三日に「ロンジュモーLongjumeauの和議」を結び、アンボワーズ和解令の制限を撤廃してユグノーに対する「信仰の自由」を認めることになった。しかし、これを機にカトリーヌは宥和政策の破綻を認めてカトリック側に立つようになり、それまで宗教的融和策を推進してきた大法官ロピタルは罷免されて、ギーズ家一門が復権したのである。 フランス:カトリック83-88%、プロテスタント2%、イスラム教5-10%、ユダヤ教1%、無宗教4% ドイツ:プロテスタント、カトリック各34%、イスラム教3.7%、その他・無宗教28.3% 1598年フランス国王アンリ4世がフランス西部のナントNantesで発した宗教的和解の勅令。 制限つきだがプロテスタントに信仰と礼拝の自由を認め,ユグノー戦争の終結をもたらした。 しかし1685年ルイ14世がこの勅令を廃止したため40万人のプロテスタントが亡命した。 フィリップ・エルランジェ『聖バルテルミーの大虐殺』(白水社ドキュメンタリー フランス史)磯見辰典編訳七~三一頁参照  彼女は、一五一九年四月一三日、イタリアのフィレンツェFirenzeでウルビーノ公ロレンツォ二世・デ・メディチLorenzo di Piero de 'Medici(ロレンツォ・デ・メディチの孫)とオーヴェルニュ伯ジャン三世Jean de La Tour d'Auvergneの娘マドレーヌとの間に生まれた。父ロレンツォ二世は叔父の教皇レオ一〇世(在位一五一三~二一)によってウルビーノ公Urbinoに叙されたが、彼の亡き後はその称号を剥奪された。母マドレーヌはカトリーヌを出産するとまもなく黒死病に罹って亡くなり、一五一九年には父ロレンツォ二  ところが一五三八年春、ファレルやカルヴァンとジュネーヴ市会とが衝突し、ジュネーヴにおける宗教改革は一時頓挫した。その原因は二つある。第一に、カルヴァンが作成した「信仰告白」は市会の承認を得て全市民に強制されることになったが、有力市民たちで構成されていたリベルタン(自由主義者)libertinが激しく抵抗し、信仰告白の宣誓を拒否する者が続出したからである。これに対してカルヴァンたちは市当局にリベルタン追放を要求し、両者の対立は決定的となった。そして第二の原因は、教会とジュネーヴ市会の関係をめぐる対立であった。その当時、宗教改革を推進していた政治家たちは、サヴォイア公国との繋がりを断ってスイス諸都市との連係を強めようと考えていたが、同じスイスの都市ベルンBernから宗教改革の形式面での統一を図りたいとの申し入れがあり、ジュネーヴ市会はそれを受け入れていた。ベルンの形式はジュネーヴのそれよりもかなり保守的で、聖餐式に使うパンはカトリック教会と同じくパン種を入れない円い薄い堅焼きパン(ホスティアhostia)であり、教会堂の中には洗礼盤を復活させる必要があった(洗礼盤は偶像破壊の際に取り払われていた)。また教会の祝日も、日曜日と受難週(カトリック教の聖週間。棕櫚の主日から復活祭の前日までの一週間)、復活節(復活祭から聖霊降臨祭までの五〇日間)だけでなく、ファレルが廃止したクリスマス、新年、受胎告知日、キリスト昇天日を守らなければならないとしていた。宗教改革者たちにとって、それらの申し入れ内容に反対すべき項目はなかったが、「ジュネーヴ政府からの要請によって教会の形式を変更する」ことは絶対に容認できなかった。カルヴァンたちは春の復活節に予定されていた聖餐式を取りやめ、市会はそれに対抗して牧師たちの説教を禁じた。しかし、カルヴァンたちは死を覚悟して説教を続けたため、市側はついにカルヴァン、ファレル、そして盲人牧師クローの三人を追放したのであった(一五三八年四月)。三人はひとまずバーゼルに滞在し、ファレルはヌーシャテルNeuchâtelへ、クローはローザンヌへと向かい、生涯を彼の地で過ごすことになる。 註⑯ ブルボン家はカペー王家の支流の一つで、一三二七年、カペー朝最後の王シャルル四世からブルボン公に叙せられたルイ一世に始まる。一五〇三年、ピエール二世が没するとブルボン家嫡流(第一ブルボン家)の男系が途絶え、娘シュザンヌと傍系ブルボン=モンパンシエ家 Montpensierのモンパンシエ伯シャルル(シャルル三世Charles III)が結婚して、共同で公位を継承した。しかし、仏王フランソワ一世と対立したシャルル三世の戦死(一五二七年)でブルボン家本流は途絶え、ブルボン公ルイ一世の四男ラ・マルシュ伯ジャック一世から五代目の末裔ヴァンドーム公シャルルCharles がブルボン=ヴァンドーム家Vendômeを興す。そしてシャルルの息子アントワーヌAntoineがナヴァール女王ジャンヌ・ダンブレJeanne d'Albret(在位一五五五~七二)と結婚してナヴァール王位を獲得し、アントニオ一世(在位一五五五~六二)となった。なお、 ジャンヌ・ダンブレ(西名フアナ三世Juana III 、仏名ジャンヌ三世Jeanne III )は、ナヴァール王エンリケ二世と仏王フランソワ一世の姉マルグリットの娘で、熱心なユグノーであった。  ところが、一五一七年、ヴィッテンベルク大学教授マルティン・ルターが始めたドイツ宗教改革や二年後の神聖ローマ皇帝選挙は、フランソワ一世の思惑から大きく外れることとなった。先ず宗教改革の発生は自らの権力基盤を危うくする恐れがあり、皇帝選挙ではより潤沢な資金を用意したハプスブルク家の西王カルロス一世Carlos I(在位一五一六~五六、独帝カール五世在位一五一九~五六)に敗れている(註⑬)。一五二〇年代には早くもルター派の思想がフランス国内にも浸透し始め、一五二五年のアランソン公シャルル四世の死後、二年たってナヴァール王エンリケ二世と再婚した王姉マルグリット・ド・ナヴァールMarguerite de Navarre(一四九二~一五四九)が暮らすナヴァール宮廷には、フランス宗教改革を始めたと言われるルフェーブル・デタープルJacques Lefèvre d'Étaples(一四五〇頃~一五三六)やジェラール・ルセルGérard Roussel(一五〇〇頃~五〇)、ラ・マルシュ学寮でカルヴァンを指導したマチュラン・コルディエMathurin Cordier(一四七九~一五六四)、フランス語訳聖書の改訂(一五三五年)で名高いオリヴェタンOlivétan(一五〇六頃~三八)など数多くの人文主義者が集ったと言われる。また、ブールジュではカルヴァンを導いたドイツ人教師メルキョール・ヴォルマールMelchion Wolmar(一四九六~一五六一)がルター主義に理解を示し、パリ近郊のモー司教区Meauxでは一五二一年頃からブリソンネGuillaume Briçonnetやギヨーム・ファレル、ルフェーヴル・デタープルJacques Lefèvre d'Étaples(一五三〇年アントウェルペンでフランス語訳聖書刊行)を中心として教会改革が開始されていた。しかし彼等は、聖書の権威を尊重し、信仰によってのみ義とされる福音主義の原理には目覚めていたが、カトリック改良派の範疇から抜け出るものではなかった。  第1条 第一に、一五八五年三月初め以来余の即位に至る間、さらには、それに先立つ騒乱の間に、各地に生    )は枢機卿ガスパロ・コンタリーニを派遣したが、この試みは失敗に終わった。しかし、レーゲンスブルクでの調停失敗は、公会議開催の必要性を改めて痛感させたのである。枢機卿ジョヴァンニ・モローネがドイツとの折衝に当たった結果、枢機卿司教クリストフ・マドルッツォーが領主を務める北イタリアの帝国都市トリエントTrient(トレントTrento)で公会議を開催することでようやく合意に達した。ところがこの年の夏に仏独間の戦争が再開されたため、またしても公会議は中止となってしまった。翌四四年には、 独帝カール五世が勝利を収めて「フレピーの和議」(九月一八日)を締結したが、敗れたフランソワ一世が秘密条項でフランス司教の出席を約束したため公会議開催の主たる障碍は取り除かれた。一一月三〇日、教皇パウルス三世は公会議中止を取り消し、一五四五年三月一五日(四旬節第四日曜日)を期して開会することを宣言した(ただし、実際に開会できたのは一二月一三日)。トリエント公会議は一五六三年一二月四日の閉会まで都合一八年間にわたって開催されたが、フランスの司教が出席するのは第三期(一五六二年一月一八日第一七会議~六三年第二五会議)のみであった。トリエント公会議では、教義上の妥協が一切なかっただけでなく、聖書はヴルガータ版 Vulgata(カトリック教会の標準ラテン語訳聖書)以外の各国語訳を認められず、伝統的秘蹟の有効性や人の自由意志、神の赦しを再確認し、聖職者の職務励行や規律と資格改善を謳ったのであった。  盟主を失ったカトリック同盟は、ギーズ公アンリの次弟マイエンヌ公シャルルを後継者とし、アンリ三   じたる一切の事件は、起らざりしものとして、記憶より抹消せらるべし。なお、検事総長その他、公人・私人を問わず、なにびとといえども、これらの事件に関し、いかなる時、いかなる機会にあっても、これを陳述・訴訟・訴追することは、いかなる裁判所におけるを問わず、これを認めない。  第⒕条 余の宮廷、イタリアに存する余の所領、およびパリ市ならびにその周辺五リウの領域においては、 改革派宗教の礼拝は、いかなるものも、これを禁止する。ただしイタリアの所領およびパリ市ならびにその周辺五リウの領域に居住する改革派信徒は、本勅令の規定に従う限り、その住居内において追及されることなく、その宗教のゆえをもって、その信仰に反する行為を強制せられることもない。   こうした国家教会体制の確立は、王権伸長に大きく貢献した。何故なら、中世以来続いてきた教会の末端組織「教区」を王権が利用できるようになったからである。一五三九年、ヴィレール・コトレ勅令は各教区の司祭に洗礼記録を載せた教区簿冊をつけるように命じ、その一一〇条・一一一条では公的文書におけるフランス語使用を義務づけている。また一五七九年、ブロワ勅令では洗礼に加えて婚姻や埋葬の記録も残すよう命じている。これらの教区簿冊の写しは国王裁判所に提出することが義務づけられていたため、 王権は「戸籍」の管理が可能となり、やがて来る中央集権国家、国民国家成立への足がかりを手にしたのである。そして王権の伸長は、王領地拡大によっても裏付けられる。当時、王国中心部に広大な領域を持ち、王権から半独立的状態になっていたブルボン公家の所領は、 当主シャルル三世Charles III de Bourbonが独帝カール五世やイングランド王ヘンリ八世と通じていたかどで没収され、一五二七年に王領に併合された。また、既に婚姻政策によってヴァロワ王朝と結びつけられていたブルゴーニュ公領も、一五三二年には地方三部会の同意を得て王領に統合されている。註⑫ 註⑤ ルモーヌ学寮(カルディナル・ルモワーヌ学院)で教鞭を執っていたときに同僚のルフェーブル・デタープルJacques Lefèvre d'Étaplesから感化を受けたギヨーム・ファレルは、やがて一緒にギヨーム・ブリソンネGuillaume Briçonnetがパリ郊外のモーで始めていた改革運動に参加した。彼等「モーの人々」は、 はじめのうちは民衆の支持を得ていたが、一五二三年には異端視されて改革は挫折した。その後、ブリソンネやデタープルは王姉マルグリット・ド・ナヴァルMarguerite de Navarreのもとで保護を受けるようになり、ファレルは一五三二年にジュネーヴで改革に乗り出した後、一五三八年からはノイシャテルで宗教改革に取り組んだ。  マドリードで幽囚の身となったフランソワ一世は、カール五世と教皇の関係を分断する目的でフランス国内における新教徒迫害指令(一五二五年)を出し、一五二六年には屈辱的なマドリード条約を結んで釈放された。帰国したフランソワ一世は条約不履行を宣言して、スペイン=神聖ローマ帝国連合に対抗するためにフランス南西部でコニャック神聖同盟Cognac(教皇・仏・英・ヴェネツィア・フィレンツェ・ミラノ)を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ・デステAlfonso d'Esteを破門し、ローマに幽閉した。また、 ドイツではヘッセン方伯フィリップ一世ら改革派諸侯によるゴータ・トルガウ同盟Gotha-Torgauが結成され、カトリック側のデサウ同盟Dessau に対抗している。翌二七年、周到な準備を重ねたフランソワ一世は戦争を再開したが、その時彼はゴータ・トルガウ同盟の支持を得るために一転してプロテスタントへの迫害中止命令を発している。一方、独帝カール五世はフランスと結んだ教皇クレメンス七世への報復のためにブルボン公シャルル三世をローマに派遣し、同年五月六日の戦闘で教皇軍を撃破した(教皇はティベル川右岸のサンタンジェロ城Castel Sant'Angeloに逃げ込んだ)。シャルル三世の指揮する皇帝軍はローマ包囲に成功したが、指揮官が狙撃で落命し、統制を失った皇帝軍は破壊と略奪の限りを尽くした(ローマ略奪Sacco di Roma)。皇帝軍は教皇の降伏(六月)後も居座り続け、この混乱の中で「イタリア・ルネサンス」は終焉の時を迎えたのである。  ユグノー派軍は先ずラ・ロシェルを防衛するためにポワトゥーPoitouなどサントンジュ地方の諸都市を包囲し、アングレームAngoulêmeやコニャックCognacを攻撃した。しかし、一五六九年三月一六日、ジャルナックJarnacの戦いで領袖コンデ公ルイ一世が戦死し、やむを得ず息子アンリ(一五歳)を名目上の司令官として実際はコリニー提督が指揮を執ることになった。また、国王シャルル九世の権威に対抗するため、ナヴァール女王ジャンヌ・ダンブレの息子アンリ・ド・ブルボン(一六歳)を指導者とした。その後、ユグノー派軍はラロシュ=ラベイユLa Roche-l'Abeilleの戦い(六月二五日)で勝利を収めたものの、 一〇月三日のモンコントゥールMoncontour(ブルターニュ地方)の戦いでは大敗を喫してしまう。やがてフランス南西部で体勢を建て直したユグノー派軍は、一五七〇年春にトゥールーズToulouse を陥落させてローヌ川沿いに北上し、パリから約二〇〇キロのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールLa Charite-sur-Loire まで迫った。しかし、ここで両軍は軍資金の問題もあって妥協し、八月八日「サン・ジェルマンの和議」を結んでいる。この和議では、ユグノー派の「信仰と礼拝の自由」についてアンボワーズ和解令(一五六三年)の線まで戻ったばかりでなく、ユグノー派に対してラ・ロシェル、モントーバン、ラ・シャリテ、コニャックという四都市を安全保障都市として認めるという画期的な譲歩がなされた。註⑳, (二)「サン・バルテルミの虐殺」と戦争の激化  一六世紀前半、イングランド王国テューダー朝(一四八五~一六〇三年)では、第二代国王ヘンリ八世Henry VIII(在位一五〇九~四七)が国家主導で宗教改革を行い、カトリック世界からの自立を図っていた。しかし、元来の彼はルターの宗教改革に反対し、一五二一年には教皇レオ一〇世から「信仰擁護者」fidei defensorという称号を与えられたほどであった。ところが一五三三年、ヘンリ八世は王妃キャサリン・オブ・アラゴン Catherine of Aragon(メアリ一世の生母)との離婚を教皇クレメンス七  ストラスブルクに招かれたカルヴァンは、(一旦バーゼルに戻るものの)マルチン・ブーツァーからの再要請で、あらためてこの都市に赴いたのは九月のことである。ストラスブルクはバーゼルからライン川沿いに下ったところにある古くからの「街道筋の町」で、 当時は自由都市であった。ここでも一五二四年から宗教改革が進められていたが、ルター派に同調することはなかった。宗教改革の中心にはブーツァーがおり、改革はヴォルフガング=カピト、カスパル・ヘディオ、マティアス・ツェル等の合議に基づいて進められていた。教会組織は一種の長老制を採用し、信徒の中から選ばれた教会執事が病人や貧者を助ける「愛のわざ」に従事していた。そして彼らがカルヴァンに求めたのはフランス人亡命者に対する牧師の役目であり、大学で講義を行うことであった。その間、カルヴァンは著作活動に励み、一五三九年には『キリスト教綱要』改訂第二版を出版し、『ローマ書注解』(一五四〇年出版)、『サドレト枢機卿への手紙』を書いている。また、カルヴァンは積極的に宗教会議に出席し、一五三九年のフランクフルト会議ではメランヒトンPhilipp Melanchthon(一四九七~一五六〇)と知り合い、一五四〇年にはハーゲナウ会議(七月)・ヴォルムス会議(一〇月)、そして一五四一年にはレーゲンスブルク会議に参加している。  一五八四年六月一〇日、王弟で推定相続人であったアンジュー公フランソワが逝去した。その結果、サリカ法典第五九条に基づきルイ九世 Louis IX(在位一二二六~七〇 世に対して宣戦布告をした。彼らは、ギーズ公シャルルCharles Ier de Guise(ギーズ公アンリの子)を西王フェリペ二世の娘イサベル・クララ・エウヘニアIsabel Clara Eugenia(仏王アンリ二世の孫娘)と結婚させてフランス王に擁立する計画を立てたとも言われている。対するアンリ三世は、ナヴァール王アンリ率いるユグノー派軍と連合してカトリック同盟との戦いを続けていた。ところが、パリ近くのサン・クルー城Saint-Cloudに滞在していた八月一日、アンリ三世はドミニコ会修道士ジャック・クレマンJacques Clémentの謁見を許したところ、この修道士は隠し持っていた短刀で国王を刺してしまった。瀕死の重体となったアンリ三世は死の床にナヴァール王アンリを呼び、彼にフランス王位を託すこととなった。翌日未明、アンリ三世は崩御し、一四世紀以来永きにわたって続いてきたヴァロワ朝はついに断絶した。なお、犯人クレマンはその場で取り押さえられ、まもなく八つ裂きの刑に処せられた。, (四)ナントの勅令 Sensibilités, moeurs et comportements collectifs sous l'Ancien Régime, Fayard 1988.  しかしその頃、 故郷ノワイヨンでは父親が大変困難な状況にあった。カルヴァンがオルレアン大学に進学した頃から父ジェラールはノワイヨン司教と対立するようになり、やがて教会から破門され、ついにはその破門が解けないまま一五三一年五月二六日に亡くなったのである。晩年の父親はカルヴァンがこれ以上哲学や神学を学ぶことを好まなかったとも言われ、一五三一年ブールジュ大学を卒業して法学得業士の称号を手にしたカルヴァンは、王立教授団に加わって古典文学研究に邁進し、一五三二年四月には『セネカの寛容についての注解』を出版している。, (二)奴隷意志論とカルヴァンの回心  しかし、経済の繁栄が人々の心性に安定をもたらすとは限らない。一六世紀という大きな変動の時代は、社会の格差拡大が顕著になる時期であり、世紀後半は地球の小氷河期に相当したから天候不順による凶作・飢饉が追い打ちをかけた。一六世紀前半に始まるルターやカルヴァンの宗教改革は、後半に入って果てしない宗教騒擾の時代をもたらした。カルヴァン派の全国教会会議が初めて開催された一五五九年頃から新旧両派の騒擾が多発し、「悪さをする幽霊」という意味のユグノーHuguenotという語句がプロテスタント(新教徒)を意味する言葉として定着する。ただし、新旧両派の暴力行為はただ単に憎悪の発作による無軌道な行動ではなく、それぞれが持っている〈真の教義〉を擁護し、〈偽りの教義〉を論破する説教にも似た目的を有していたと言われる。また、当時のキリスト教信仰は信者個々人の内面的な営みとは限らず、家族や教区、村落といった共同体的な絆の中で行われる行為でもあったから、異端を自分たちの共同体を汚す存在と見なし、神の怒りを鎮め、異端によって傷つけられた社会的身体の統一を回復して真の統一を生み出すためには、異端という汚れを祓う必要があると考えたようである。プロテスタントの場合は聖具や聖画像に汚れを認めてその破壊に力を注いだ(偶像破壊運動)が、カトリック教会は異端者の身体を汚れの源泉ととらえて殺戮と死体冒瀆を行い、異端根絶に血道を上げた。フランス全土で一万人を超えるユグノーが惨殺されたサン・バルテルミ事件はその典型である。そして、宗教騒擾を引き起こす群衆の中核をなしたのは信心会、祭りの組織、若者組、民兵組織など共同体の中で重要な役割を担っていた集団であった。異様なまでに宗教的情熱が高まって新旧両派が激突した一六世紀後半、司法官ら都市部のエリート層は農村民衆の異教的伝統の中に「悪魔の陰謀」を見いだし、その宗教的・文化的征服に乗り出したのが、悪魔と契約しその手先となる魔女を告発する「魔女狩り」だと言われる。魔女狩りが最も盛んに行われたのはユグノー戦争期の一五六〇~一六三〇年(とりわけ一五八〇~一六一〇年)で、魔女狩りに新旧両派の区別はなかった。註㉗  ところで、アンリ二世の治世の間に、フランス政界で大きく台頭するのがギーズ家 Guiseである。ギーズ家は、ロレーヌ公国の君主家門ロレーヌ家の分家で、ロレーヌ公ルネ二世の次男クロードに始まる。クロードはフランソワ一世に仕えて公爵位とプランス・エトランジェPrince étrangerという地位を獲得し、フランス宮廷において極めて高い序列をしめるようになった。彼の長女メアリ・オブ・ギーズはスコットランド王ジェームズ五世James V(在位一五一三~四二)の妃となり、一五四二年一二月八日、二人の間の第三子(長女)として誕生したのがメアリ・ステュアートMary Stuart(スコットランド女王メアリ一世、在位一五四二~六七)である。しかし、彼女は生誕まもない一二月一四日に父が急死し、兄二人が早世していたためにわずか生後六日で王位を継承した。摂政にはジェームズ二世の曾孫アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任し、イングランド王ヘンリ八世の要求で王太子エドワード(後のエドワード六世)と婚約させられたりもした。一五四七年、イングランドの実権を掌握したサマセット公エドワード・シーモアがスコットランドを攻撃し、 迎撃したアラン伯は大敗を喫した。危機に瀕したスコットランドでは、翌四八年、王母メアリの計らいで女王メアリ・ステュアートを仏王アンリ二世のもとに移し、彼女は以後フランス宮廷で育てられることとなった。やがて一五五八年四月二四日、メアリ・ステュアートと仏王太子フランソワ(後のフランソワ二   ところで、英仏百年戦争が終結した一五世紀半ば頃、大所領を持つ有力家系の貴族=領主層は王・諸侯からそれ相応の官職を得て俸給を確保し、所領支配の安堵を受けるようになった。彼らは新たな役人集団officiersを結成し、貴族・上層都市民双方の出身者からなる「名士」notablesと呼ばれる集団を構成するようになる。貴族=領主層の官職貴族(廷臣)化の動きは、国王への権力集中をもたらすことになるが、 一六世紀後半の宗教戦争期には「売官制」vénalité des officesの広がりと法服貴族の台頭で変化に拍車がかかった。中世以来、貴族とは家柄の古さと名誉を重んじ、血を通してのみ継承される特別な家門を指したが、この頃には貴族身分を新たに入手することが可能となった。すなわち、国王が特別な勲功をあげた臣下に対して貴族叙任状を付与したり、富裕な都市民が国王官職や都市の役職に就くことによって貴族身分を獲得する途が開かれたのである。一六世紀前半には既に国王官職を売却して戦費調達にあてる国王がいたが、同世紀後半にはその動きがいっそう強まった。一五七五年から八八年までの間にルーアン高等法院評定官職の価格が二倍に跳ね上がったように、官職価格の高騰はユグノー戦争期間中が特に著しい。そうなると地方の小貴族では入手が困難となり、これらの官職を購入したのは都市の富裕市民であった。こうして中世騎士の流れをくむ伝統的貴族(「帯剣貴族」)と官職売買をとおしてその身分を入手した「法服貴族」が併存することになり、後者の中には国家の政務を扱う国務会議に席を占める者までいた(一六世紀後半には法服貴族の間でも官職の世襲化が進み、官職の売買も増えた)。  その間、ナヴァール王アンリやコンデ公アンリは、元ユグノー派牧師ユーグ・シュロー・デュ・ロジエやブルボン枢機卿の説得を受け容れてカトリックに改宗し、辛うじて死を免れた。しかし、フランスにおけるユグノー派弾圧は苛烈を極め、恐慌状態に陥った人々の中にはカトリックへの改宗をしたり、国外逃亡を図る者も続出した。こうした情報に接した西王フェリペ二世はフランス大使サン・グアールを宮中に招いて談笑し、教皇グレゴリウス一三世Gregorius XIII(在位一五七二~八五)は祝砲を撃ち上げてカトリックの勝利を喜んだ。この後、ヴァザーリGiorgio Vasariは教皇の命令でフレスコ壁画「聖バルテルミの虐殺」(ヴァチカン宮殿)を描くことになる。対照的にイングランド王エリザベス一世は精神的ダメージを受けて喪に服し、駐仏大使ウォルシンガムを召還して抗議の意志を示した。しかし、ユグノー派は民衆を担い手とする抵抗運動を組織し、ロワール川中流のサンセールSancerreや武将ラ・ヌーが死守した大西洋岸の城塞都市ラ・ロシェルなどで激しい戦闘を繰り返した。特にラ・ロシェルでは、市長ジャック・アンリと商業資本家ジャック・サルベールが一三〇〇人の兵士とブルジョワ市民軍からなる守備隊を結成して徹底抗戦を続けた。一五七三年の聖燭祭 Candelaria(二月二日、聖母のお潔めの日Purificatio Maria)の数日後、アンジュー公アンリが率いる先遣隊に合流するため、アランソン公、コンデ公、モンモランシ公など多くの貴族が本来の宗派の壁を乗り越えて一緒にパリを発った。しかし、この混成部隊に亀裂が入るのに時間はかからなかった。当てもなく続く攻囲戦の中でポリティーク派をアランソン公の味方に引き込んだモンモランシ公はギーズ家一門を襲撃し、アランソン公はアンジュー公の部隊を攻撃する始末であった。こうしてユグノー派に対する攻撃は事実上困難となり、同年七月、ついに「ブーローニュ勅令」Boulogneが発せられて全てのユグノーに「信仰の自由」が与えられただけでなく、南部の3都市(ラ・ロシェル、ニーム、モントーバンMontauban)では「礼拝の自由」も認められた。註㉑  たが、新約聖書では会衆の霊的指導に当たる職となっている。教会の職制の一つとして明示されるのは宗教改革の時代のことであり、バーゼルの宗教改革者エコランパーディウスJohannes Oecolampadiusの提唱に基づいてストラスブルクのブーツァーが導入したのが最初である。カルヴァンは牧師・教師・長老・執事の四重職制を教会規定の形で制度化した。また、長老制は段階的合議制をとっており、 信徒代表が牧師職と構成する長老会(小会)、幾つかの長老会で作られる会議体(中会presbytery)、最終的には全国的組織(大会)となる。  王母カトリーヌは当初、ギーズ家とともに動かざるを得なかったが、宗教問題で一方に肩入れするのを避けようと配慮した。一五六〇年六月、カトリーヌはオルレアン三部会で国法の擁護者ミシェル・ド・ロピタル Michel de l'Hôpital を尚書局長(大法官)に任命し、八月にはフォンテーヌブロー宮Fontainebleauに諮問会議を召集してユグノーが特定の場所なら自由に礼拝できるようにしようとした。しかし、当のコンデ公がフランス南部で武装蜂起を開始したため、カトリーヌは彼を宮廷に召還し、国王に対する反逆罪で死刑の宣告をしなければならなかった。ところが同じ頃、息子フランソワ二世が狩猟から帰るやいなや「耳の後ろが痛い」と訴えて倒れてしまった。彼の病気は中耳炎であったが、その症状は脳葉にまで達して脳炎を引き起こしており、一二月五日には他界してしまった(享年一六歳)。カトリーヌはフランソワ二世が助からないと悟ったとき、ナヴァール王アントワーヌが次の国王(シャルル九世)の摂政になる権利を放棄するならば彼の弟コンデ公を釈放すると約束した。こうしてフランソワ二世の死去後、一三日に全国三部会がオルレアンで開催され、二一日の国務会議においてカトリーヌを摂政に任命して全権を委任し、コンデ公の命は救われたのである。なお、フランソワ二世との間に子供ができなかったメアリ・ステュアートは、翌六一年八月二〇日にスコットランドに帰国するはめとなった。註⑰, 第四節 ユグノー戦争(一五六二~九八年) Main ルイ14世の関心の一つは、国家の統一、特に宗教的統一の復活であった。カトリック教会を王の特権で保護し、教皇令を削除し(ガリア主義)、フランスのプロテスタントの家族に竜騎兵を派遣して苦しめ、彼らを迫害して改宗させた。 フランスのバロア朝末期の内乱 (1562~98) 。 宗教戦争とも呼ばれる。 フランス王はプロテスタントに対し長く曖昧な態度をとり続けてきたが,国王 フランソア1世の治世末期からしだいに反プロテスタントの態度を明確にし始め,1551年シャトーブリアンの勅令でプロテスタントの集会を禁止した。 註㉒ 久保正幡訳『サリカ法典』(創文社)一五八~一六〇頁参照  一五三三年一一月一日、パリ大学総長ニコラ・コップNicolas Cop(一五〇六~?、ギョーム・コップの息子)は大学開講日に「キリスト教的哲学」という演題で講演を行ったが、その内容が極めて宗教改革の色合いが濃厚だったために問題となった。彼はカルヴァンの親友であったことから、今でも講演原稿の起草者はカルヴァンではないかと推測されている。その当時、仏王フランソワ一世François Ier de France(在位一五一五~四七)は教皇クレメンス七世Clemens VII (在位一五二三~三四)とフランス国内の異端撲滅を約束するマルセイユ協定(一五三三年)を締結したばかりであった。パリ大学からの内部告発を受けた国王は直ちに王令を発して、ニコラ・コップを最高裁判所に召喚した。危険を察知した二人はパリを脱出する。カルヴァンは友人ルイ・デュ・ティエが主任司祭をしていたフランス南西部の町アングレームAngoulêmeへと逃げ、シャルル・デスペヴィルという偽名を使っている。また翌三四年にはネラクNérac(四月)を経て故郷ノワイヨン(五月)へ行き、教職禄辞退の手続きをしている。その後、カルヴァンはメスMetzからシュトラスブルクStraßburg(ストラスブールStrasbourg)へと逃亡の旅を続けた。ところが、この年の一〇月、何者かがカトリック教会のミサを罵倒し、パリをはじめブロワ、オルレアンなど多くの都市で教皇やカトリック教徒を偽善者呼ばわりする怪文書をばら撒く事件が発生し、国王の寝室の扉にまで貼られる始末であった。この檄文事件に激怒したフランソワ一世が、即日「異端撲滅令」を発したため、フランス全土では約一カ月間にわたって迫害の嵐が吹き荒れた。パリではエチエンヌ・ド・ラ・フォルジュなど多くの殉教者を出す一方、イグナティウス・ロヨラ等によってカトリック的世界を守るためのイエズス会が結成された(一五四〇年認可)。  (一)宗教的融和策と戦争勃発  ところで、一六世紀を特徴づける都市化の動きは内乱に苦しんだ世紀後半にも続き、フランス全体の都市人口は増加の一途をたどった。都市人口(人口一万人以上の都市に住む人口)は、一五五〇年には約八一万人であったが、一六〇〇年には約一一〇万人に増加している(一六〇〇年頃のフランスの国土は約四六万平方キロメートルで、人口は約一九〇〇万人)。そして都市人口増加の原因は、自然増よりも新参者の流入という社会増によってもたらされた。米国の歴史家ナタリー・Z・デーヴィスNatalie Zemon Davis(一九二八~)の研究によれば、一五五〇~八〇年のリヨンではプロテスタントの男性の場合、七割近くが新参者だったという。都市の内部では一五三〇年頃から農産物の不足や物価騰貴によって実質賃金が低下し始めていたが、一五七〇年代以降は産業発展の鈍化に加えて穀物価格の高騰と失業の増加が職人ら賃金生活者をより貧窮化させた。また、この当時は原材料と道具を貸し付ける前貸問屋制と農村工業が結びついた「問屋制農村工業」が進展して農民層に現金収入の機会を提供したが、都市の手工業者にとっては高価な原料の供給を独占する問屋商人(商業資本家)への従属を強める結果となった。リヨンの絹織物、ノルマンディの毛織物、アミアンのセイエテ(絹を混ぜたサージ)製造、ブルターニュの綿織物などが問屋制の支配下に組み込まれ、手工業者は独立性を失っていく。そして貧窮化とともに手工業者の社会的地位は低下し、サンスSensでは一五三〇年、パリでは一五五四年、ランスでは一五九五年から親方層も含めあらゆる手工業者が市政から排除され、都市の役職は富裕商人、法曹家、国王役人が独占した。一五  翌七五年二月一三日、アンジュー公アンリはランス大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Reimsで戴冠式を挙行して仏王アンリ三世Henri III(在位一五七四~八九)となり、その直後にはギーズ家の同族にあたるメルクール公ニコラNicolas de Lorraine, duc de Mercœurの娘ルイーズ・ド・ロレーヌ・ヴォーデモンLouise de Lorraine-Vaudémontと結婚している。しかし、翌年始め、ついに宮廷からの脱走に成功したナヴァール王アンリとコンデ公アンリが再びユグノー派に改宗して指導者に復帰した。また、国王夫妻に世継ぎが生まれなかったことで王位継承者の如く振る舞いだした王弟フランソワがドイツのプロテスタント諸侯の援軍を得てパリ進軍を行ったため、アンリ三世はやむなく「ボーリュー勅令」Édit de Beaulieu (五月六日所謂「王弟殿下の講和」)を発してユグノーの要求をほぼ全面的に受け入れた。すなわち、サン・バルテルミ事件における犠牲者の名誉回復や各高等法院における「新旧両派合同法廷」の設置、さらにはユグノーの「礼拝の自由」がパリ及び国王が滞在する町以外の全ての都市と場所で身分の区別なく認められたのである。  その間、一五九〇年五月九日、ブルボン枢機卿シャルル一世が身罷った。一五九三年一月二六日、カトリック同盟のマイエンヌ公は新国王選出のための全国三部会をパリに招集した。西王フェリペ二世は王女イサベル・クララ・エウヘニアをフランス王として送り込もうとしたが、パリ高等法院はこれに反対した。こうしたカトリック同盟側の足並みの乱れを突いたのがアンリ四世である。同年七月二六日、アンリ四世はサン=ドニ大聖堂Basilique de Saint-Denis でカトリックに改宗し、翌九四年二月二七7日にはパリ南西八〇キロにあるシャルトル大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Chartresにおいて戴冠式(成聖式)が執り行われた(戴冠式は伝統的にランス大聖堂で挙行するのが望ましいが、当時はカトリック同盟の影響下にあった)。こうしてカトリック教会はアンリ四世を拒むことが難しくなり、一五九四年三月二二日、王は念願のパリ入城を果たしたのである。また、この年の暮れにイエズス会クレルモン学院の学生による国王暗殺未遂事件が発生したため、翌年一月、カトリック教会はイエズス会をパリから追放し、一六日の聖職者会議では国王アンリ四世の即位を承認することになる。そしてパリ開城後、国内の都市の多くは国王に帰順するようになり、教皇クレメンス八世Clemens VIII(在位一五九二~一六〇五)もアンリ四世を赦免し、破門を取り消した。アンリ四世のパリ入城を可能にした要因の一つとしては、パリ市民の中にスペイン王国に対する恐怖心や、フランスの統一回復を期待したポリティーク派の勢いが増していたことなども挙げられる。  一方、フランス国内の新旧両派は活発に布教活動を展開していたが、一五四〇年代から広まりだしたフランス=プロテスタント(ユグノーHuguenot)の勢力は、始めは都市の手工業者や小商人に信仰されただけだったが、次第に幅広い階層に支持されるようになった。一五五〇年代後半からは高等法院内部にユグノーが現れ、ついで兵士や貴族の中にも改宗者が続出してパリ地方、ロワール流域、西部および西南部フランス、リヨンやローヌ川下流の諸都市に浸透し、一五五九年には最初の全国教会会議がパリで開催されるまでになった(五月二五日、議長はフランソワ・モレル牧師)。一五六一年にはユグノー派の教会もしくは集団が二一五〇も存在し、プロテスタント人口は二〇〇万人にのぼった(その後は弾圧が激しくなったために、一五九八年に一二五万人、一六八一年に七三万人と減少したと推定されている)。, 第三節 イングランド宗教改革とフランスの内乱  第27条 余が臣民の意志を望むごとく、より良く和解せしめ、爾後の一切の不満を除去するために、余は、 改革派宗教を現在または未来において公然と奉ずる者も、余の王国の、国王・領主あるいは都市の、すべての地位・要職・官職・公務を、この規定に反する一切の決定にかかわりなく、これを保持し行使しうるものとし、 なんら差別されることなく、これらの職務に従事しうるものとする。  世界の大多数の人々が信仰するキリスト教には、カトリックとプロテスタントの二つの宗派が存在します。仏教が主な宗教である日本では、あまり馴染みが無く違いがよくわからない人も多いでしょう。今回は、そんなカトリックとプロテスタントの違いについてご紹介します。  第六条 余が臣民の間に、騒乱・紛議のいかなる動機も残さぬため、余は改革派信徒が、余に服する王国のすべての都市において、なんら審問・誅求・迫害されることなく、生活し居住することを認める。彼らは、事宗教に関して、その信仰に反する行為を強いられることなく、また、本勅令の規定に従う限り、彼らの住まわんと欲する住居、居住地内において、その信仰のゆえに追及されることもない。  プロテスタントは、フランスでは少数派です。 歴史的背景として、かつてフランスのプロテスタント教徒はユグノーとよばれ、カトリックとの内乱があり1572年のサン バルテルミの虐殺で、カトリック教徒が、プロテスタント教徒を大量に虐殺したということなどもあります。 宗教戦争は、「ナントの勅令」の1598年まで続き、プロテスタントにも宗教の自由が与えられたのですが その後ルイ14世により、その勅令を廃止、カトリック中心の権威主義国家となり、多くは国外へと逃れていき現在は …  ヴァシー事件後、ユグノー派は直ちに反撃に打って出た。コンデ公ルイ一世やガスパール・ド・コリニー提督Gaspard de Coligny(シャティヨン・コリニーの領主)を中心とするユグノー派は、シャルトル管区防衛長官ロベール・ド・ラ・エイ等を派遣してイングランド王エリザベス一世とハンプトン・コート密約Hampton Court を結び、兵士一万人とクラウン銀貨一〇万枚(クラウン銀貨一枚は五シリングに相当)という援助の見返りにカレーCalaisの返還とル・アーヴルLe Havreの担保がついた(秘密条項としてディエップDieppeとルーアンRouenの割譲も約束した)。その結果、イングランド軍はセーヌ河口のル・アーブルに上陸し、ユグノー派もフランス国内の諸都市を占拠した。しかし、国王軍も速やかに行動し、ユグノー派の拠点ルーアンを包囲した(一五六二年五~一〇月)。またドルーDreuxの戦い(一五六二年一二月)ではコンデ公ルイ一世を捕虜としたが、国王軍司令官モンモランシも捕らえられた。摂政カトリーヌはコリニー提督に帰順を呼びかけ、包囲戦で狙撃され死の床にあったナヴァール王アントワーヌのもとを訪ねている。しかし、六三年二月一八日、オルレアン包囲中のギーズ公フランソワはユグノー派のポルトロ・ド・メレという男が背後から撃った銃弾を受けて斃れるという事件が発生し、新旧両派とも戦争継続が困難となったこともあって、三月一九日にはアンボワーズ和解令(和解勅令)が発せられて休戦となった。この和解令はすべての臣下に「信仰の自由」を認めたが、「礼拝の自由」は貴族とりわけ上級裁判権を持つ貴族には認めたものの、一般民衆には極めて厳しい制約を課しており、パリ市内ではカトリックの礼拝しか認められなかった。  当時のジュネーヴは三方をサヴォイア公国Savoiaに囲まれ、司教はサヴォイア公と結びついていた。したがって、ジュネーヴはスイスの他の都市と同じく市会があり、時には市民総会が開催されていたが、 一五二六年の「共和都市独立宣言」後も完全に独立しているとは言い難い状態にあった。しかし、一五三二 年、所謂「モーMeauxの人々」の一人ギヨーム・ファレルGuillaume Farel(一四八九~一五六五)が訪れたときから、ジュネーヴは大きく変化した。ファレルが宗教改革を始めたからである(註⑤)。始めのうちはファレルの教えに耳を傾ける人はほとんど居なかったが、やがて新しい宗教こそがジュネーヴの独立に必要だと考える人々が増え、一五三六年五月二一日、全市民集会における投票を経て「福音によって生きる」宣言を発したのであった。但し、 ジュネーヴ市民が行ったのはあくまでも政治的独立を願った決断であり、宗教改革に踏み込んだわけではなかった。  註㉔ 二宮宏之訳『西洋史料集成』(平凡社)より引用   しかし、こうした人文主義的な福音主義運動やルターの著作物の流入、ドイツやスイスからやって来る遍歴説教者の活動などによって、フランスにも福音主義がじわりと浸透し始める。当時、独帝カール五世とのイタリア戦争の最中にあったフランソワ一世は、カトリックの信徒として基本的には反福音主義の立場にあったが、時には国内の超保守派やドイツ=プロテスタントとの関係を考慮してフランス=プロテスタントの活動を黙認するという相反する宗教政策を展開していた。  1.イングランド宗教改革 ). (一)カルヴァンの生い立ち  ところがカルヴァンは、一五三五年一月、バーゼルBaselを訪れて『キリスト教綱要』初版を脱稿し、 フランソワ一世への献呈の辞を書き加えている。おそらく、その理由としてはフランソワ一世の落ち着かない宗教政策が挙げられるのではないか。カルヴァンの書いた『キリスト教綱要』の内容は、「信仰は聖書を基準とし、救済は信仰によってのみ得られる」とする福音主義(註④)そのものであるが、同時にフランソワ一世に対する反論という側面も併せ持っていた。出版は翌年三月まで遅れ(第二版一五三九年、 第三版一五四三年、第四版一五五〇年、最終版一五五九年)、生活に窮したカルヴァンはプロテスタントを保護していた北イタリアのフェラーラ公Ferrara の宮廷を訪ねている(一五三六年二月)。フェラーラ公エルレコ二世Ercole II d'Esteはカトリックの信奉者であったが、公爵夫人ルネRenee de France(国王ルイ一二世の娘。フランソワ一世の妃クロードの妹)は新教徒に対する理解者であった。しかし、やがて皇帝カール五世によるフェラーラ公国に対する圧力が強まり、宮廷の客人たちは四散するしかなかった。カルヴァンは西へ向かい、ピエモンテ地方の町アオスタAostaからサン=ベルナール峠越えでスイスに入り、 バーゼルからマルチン=ブーツァーMartin Butzer(一四九一~一五五一)やヴォルフガング=カピト Wolfgang Capito(一四七八~一五四一)など高名な指導者の住むストラスブルクへ向かうつもりであった。ところが、そのルートは仏王フランソワ一世と皇帝カール五世の戦いで通行不能となっており、やむを得ず一旦リヨンに出てからジュネーヴ Genève入りを目指すことになった。 『信仰の運命ーフランス・プロテスタントの歴史』は、フランスにおけるプロテスタント迫害の歴史を辿っているが、教義ではなく歴史的観点から宗教をみるとき、そこに政治的な理由が絡んでいることは …  一五八五年三月、ギーズ公の北フランス占領で再び戦闘が開始された。同年七月七日、国王アンリ三世はギーズ公に配慮して、ユグノーの礼拝禁止や改宗に応じない者の国外追放(牧師は一カ月以内、信者は六カ月以内に国外追放)、ナヴァール王アンリの王位継承権無効を内容とする「ヌムール勅令」Nemoursを発した。教皇シクストゥス五世Sixtus V(在位一五八五~九〇)もこれに呼応してナヴァール王アンリを破門し、彼が持っていたナヴァール王位とフランス王位継承権の剥奪を宣言している(九月九日奪権回勅)。また、イングランド王エリザベス一世によるメアリ・ステュアート処刑(一五八七年二月一八日)は、カトリック世界全体を怒りの渦に巻き込んだ。これに対してナヴァール王アンリは、ドイツ諸邦やイングランド、デンマークに資金援助を求めるとともに国内のポリティーク派などと結んで、一五八七年一〇月二〇日、クートラCoutrasの戦いで国王軍・カトリック同盟軍・スイス人傭兵の連合軍を撃破することに成功した。しかしその直後、アンリ三世はドイツから来ていたユグノー派支援軍を破ってパリ市民の期待を集めるようになったギーズ公の存在が疎ましくなった。翌八八年五月、国王はギーズ公勢力を抑えようとして失敗し、一二日には旧教同盟派を中核とするパリ市民が全市にバリケードを築いて反旗を翻し、国王とその軍隊が敗走するという事件が発生した(五月一二~一八日、バリケードの日)。この市民蜂起の背後にはギーズ公の熱狂的人気やカトリック信者の宗教的情熱に加えて、パリ市民の自治都市再現への期待などが混在していたと思われる。いずれにせよ、パリの全権はパリ一六区に設けられた九人制の評議会と一六区代表、三身分代表からなる連合総評議会が掌握し、カトリック同盟はこの革命政権を全国に拡大しようと考えた。その時、年老いた王母カトリーヌが国王とギーズ公の仲介役を果たし、アンリ三世はカトリック同盟が求めたヌムール勅令の再確認や、ナヴァール王アンリの叔父ブルボン枢機卿シャルル一世 Charles Ier de Bourbon(ギーズ公派)の王位継承、ギーズ公の国王総代官任命など屈辱的な内容を呑むことになった(七月二一日、ルーアンRouenで「統一王令」に署名)。  しかし、全ての帯剣貴族が没落傾向にあったわけではなく、地方総督gouverneurs de provinceとして強大な影響力、軍事力を誇る大貴族がフランス各地に割拠するようになる。一五世紀末から一六世紀初頭に国境地帯におかれた地方総督は、フランソワ一世の時代に一一から一六に増え、その権限も強化された。しかもポストの世襲が認められたため、大貴族は半ば独立した支配者として、数世代にわたってその地方に君臨し続けたのである。ラングドックのモンモランシ家、ドーフィネのレディギエール家、ブルゴーニュのマイエンヌ家などがその代表例で、彼等はしばしば地方三部会の支持を得て、王権の統制がきかない半独立的勢力として権勢を振るった。一方、家門と財産の保持を願う中小貴族は、大貴族をパトロン(保護者patron)、自らをクリアン(被保護者client)として認めて保護=被保護関係を結ぶ。この関係では、封建制のように封土の授受は伴わないが、相互利益と忠誠に基づく名誉ある関係には変わりない。例えば、 大貴族(保護者)は王権に働きかけて傘下の中小貴族が年金や官職を得られるように便宜を図り、中小貴族(被保護者)は大貴族の軍隊や家政に役職を得て戦争や宮廷伺候の際にはパトロンの紋章や制服を身につけて馳せ参じた。こうしてフランス全土に張りめぐらされた保護=被保護関係は、ラングドック、プロヴァンス、イル・ド・フランスに勢力を張るモンモランシ家、南西部を支配するブルボン親王家、シャンパーニュ、ブルゴーニュを拠点とするギーズ家の三大グループが成立した。この三大グループのクリアンたちはパトロンの信仰に従ったため、ユグノー戦争は保護=被保護関係に宗教的結束が重なって複雑な展開を見せたが、最後に勝利を収めたのはカトリックに変化したブルボン家であった。註㉘ 註⑪ G.R.Elton, Reformation Europe 1517-1559, London, 1963(The Fontana History of Europe). 四~一六九頁、近藤和彦前掲論文一七~二六、四三~四九頁、髙澤紀恵前掲論文一二〇~一二九頁各参照 プロテスタントの特徴 プロテスタント諸教会の大前提は、当時カトリック教会が救われを献金に求めたことに対して、「人は信仰によってのみ救われる」とする信仰義認の立場です。そして、救われは、福音(イエスの教え)による神の恵みととらえます。 註㉗ Robert Muchembled, L'invention de l'homme moderne.  以上のように、アンリ四世は、改革派信徒(ユグノー)の「信仰の自由」を保障し、(一定地域に限定はしたものの)公の「礼拝の自由」や、書籍の出版・販売を認めた。また、ユグノーがあらゆる地位・要職・官職・公務に就く権利も認めている。確かに「ナントの勅令」は新旧両派に完全平等の地位を与えたわけではないが、明らかに従来の寛容政策の枠を越えており、ながく続いた宗教戦争を終結させる力を持っていた。換言するならば、武力や論争では混迷したフランス王国の諸問題を解決することができないことが明らかとなり、新旧両派は現実的な政治レベルでの解決に身を委ねるしかなかったのである。一五九八年五月二日、フランス北部のピカルディ地方で結ばれたヴェルヴァン条約Vervinsによりユグノー戦争は終結の時を迎えることが出来た。西王フェリペ二世はこの条約締結によりカトー・カンブレジ条約(一五五九年)の時と同じ領土を仏王アンリ四世に認めることになり、やがて訪れるフランス絶対王政への出発点となったのである。註㉕, 終節 「繁栄の一六世紀」から「危機の一七世紀」へ  ユグノー戦争が小休止をした一五七〇年、王母カトリーヌは婚姻政策によってヴァロワ朝の権益を守ろうとした。同年、仏王シャルル九世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世Maximilian II(在位一五六四~七六)の皇女エリザベート・ドートリッシュÉlisabeth d'Autricheと結婚し、カトリーヌは二人いた王弟のいずれかをイングランド王エリザベス一世と結婚させようと画策した。また、西王フェリペ二世に嫁いだ長女エリザベートは一五六八年出産の際に亡くなっていたが、今度は末娘マルグリット・ド・ヴァロワMarguerite de Valoisをアンリ・ド・ブルボンのもとへ嫁がせようとしたのである。一五七二年、ジャンヌ・ダンブレは息子がユグノーに留まることを条件に息子とマルグリットの結婚に同意した。しかし、結婚式の準備やユグノー派への援助などで身をすり減らしていたジャンヌは肋膜炎に罹り、五日間病床に就いた後、六月九日に息を引き取った(享年四四歳)。そのため、息子アンリはナヴァール王位(在位一五七二~一六一〇)を継承した後、八月一八日にパリ市内のノートルダム大聖堂で結婚式を挙行したのであった。カトリックの新婦だけが大聖堂内に入り、新郎は司教館で待つという奇妙な結婚式は、新旧両派の「平和」の象徴という政治的意味をこめた儀式であった。  こうしてナヴァール王アンリがフランス王位を継承してアンリ四世Henri IV(在位一五八九~一六一〇)となり、新たにブルボン朝 Bourbons(一五八九~一七九二、一八一四~三〇)が開かれた。しかし、カトリック同盟はローマ教皇から破門されているアンリ四世の即位を認めず、ブルボン枢機卿シャルル一世を新国王シャルル一〇世として擁立し、マイエンヌ公を王国総代官に任命した。当時、アンリ四世の国王軍はフランス西部と南部を抑えただけで、北部と東部はカトリック同盟軍が支配していた。しかし、九月のアルクArquesの戦い(二〇~二一日)は国王軍側の勝利となり、その後もノルマンディ地方の掃討に成功した。年が明けて三月一四日、イヴリーIvryの戦い(ノルマンディ地方)でも勝利を収めたアンリ四世はパリを包囲したが、八月末にはパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼAlessandro Farnese率いるスペイン軍が攻め込んできたため、包囲網を解かなければならなかった。そして、一五九一年から翌年にかけてのルーアン包囲戦も同じような展開となっている。このように、アンリ四世は各地でカトリック同盟軍と戦いながらパリ攻略を目指していたが、頑強な抵抗を受けてどうにも陥落させることが出来ず、やがて「カトリック信者が圧倒的に多いパリの市民たちはユグノーのままの自分をフランス王として受け容れることはない」と観念することになる。  ところで、フランソワ二世の即位は、王妃の外戚に当たるカトリック貴族ギーズ家一門とユグノー派貴族ブルボン家の対立を表面化させた(註⑯)。即位式の翌日、王妃の伯父にあたるロレーヌ枢機卿やギーズ公フランソワは国王夫妻とともにルーヴル宮殿に入り、ユグノー派弾圧に着手した。一方、ブルボン家のナヴァール王アントワーヌ(ヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボンAntoine de Bourbon, duc de Vendôme)やその弟コンデ公ルイ一世Louis Ier de Bourbon-Condéを盟主としたユグノー派は、ギーズ家打倒とブロワ城にいた国王の拉致を謀ったが、(弁護士ダヴィネルがロレーヌ枢機卿にその情報を漏らしたため)事前に露見してしまった。ギーズ家は、ユグノー派の動きを察知して宮廷をロワール渓谷のアンボワーズ城Amboiseへと移し、城外の森に潜んでいた反乱軍に奇襲をかけて指導者ラ・ルノディー等を惨殺した。捕縛された一五〇〇人以上のユグノーたちは、宮廷人の目の前でそれぞれ絞首刑、斬首刑、車裂の刑に処され、見せしめとして晒されたという(一五六〇年三月、アンボワーズ陰謀事件 la Conjuration d'Amboise)。  一五四一年九月一三日、カルヴァンは再びジュネーヴに呼び戻された。ジュネーヴでは、カルヴァン以外にこの難局を切り抜けることができる人物はいない、との意見が他を圧倒したのである。しかし、カルヴァンはジュネーヴでの仕事を再び一からやり直さなければならなかった。前回同様、まずは教会諸規定を整え(一一月公布)、カテキズムを用意することから始めた。彼が再建した教会組織の最高責任者は牧師であり、一人の牧師以上の権威を持つことができたのは毎週開かれる牧師会のみであった(そこでは聖書の共同研究がなされた)。また、市会によって選出された一二名の長老たちは、牧師五名とともに長老会(コンシストワールconsistoire)を構成して教会員の信仰生活の規律を厳守させるとともに、長老会内部の誤りを是正する機能をも果たした。長老は教会内部の職だから本来であれば信徒間の選挙で選ばれるべきだが、カルヴァンたちの教会は未だ都市国家ジュネーヴの政治的権力から完全には分離できていなかったため、長老は市会によって選出されたのである。しかし、長老が教会内では牧師と同格の存在となり、 以前なら牧師のみが行い得た霊的指導という権能を持ったことの意義は大きい。牧師と長老がともに協力して、キリストの権威を鮮やかに浮かび上がらせるように教会の秩序を整える体制が誕生したのである。そして、司教制の廃止と長老制の導入は、宗教改革と政治的独立を結びつけることとなった。註⑦