上杉謙信が出兵し、それを受けた武田信玄も塩崎城に布陣しますが、両者にらみ合いの状態が2ヶ月間にわたって続きました。 その結果両軍は撤退し、これ以降川中島における上杉と武田の衝突はありません … 実は、川中島の戦いには明確な勝敗はありません。 1553年から1564年の間に川中島の戦いは5回も起こっていますが、どれも引き分けといっていい結果になっています。 ですが個人的な私の見解では、謙信の勝ちだと考えます。 状況的なものからしか勝敗を決めるしかないので、5回の戦いを解説しますね。 まず、何年に合戦が起こったかというと…… 本当に5回の戦いが引き分けになっています!! 基本的に川中島の戦いはにらみ合いだったり、和睦をしたりと明確にはついていないんですね。 なので、勝敗 … 戦国時代、ひいては戦国武将たちに魅力を見出し、「どの武将が最も強かったのだろう」と考えたことのある方も少なくはないでしょう。 今回は「日本最強の武将5選」と題して、戦国時代にその名を轟かせた最強の武将たちをご紹介します。 こんにちは! 武田信玄は『甲斐の虎』として知られる戦国武将です。. 天文21年9月1日、越後勢は八幡〔やわた〕(千曲市)にいた武田軍を追い、さらに武田配下にあった荒砥〔あらと〕城(千曲市 旧上山田町)、青柳〔あおやぎ〕城(筑北村 東筑摩軍旧坂北村)を破り、麻績〔おみ〕(東筑摩郡麻績村)、会田〔あいだ〕(松本市 東筑摩軍旧四賀村)虚空蔵城まで取り返しました。塩田城にいた武田軍もただちに兵をくりだし、13日の夜、麻績、荒砥城に放火させ、反撃を示しました。この時、室賀山城守信俊の手勢が敵の首七つを取ったと『高白斎記』は書き留めています。1… 信玄と謙信「川中島の戦い」の謎. 出典画像:Wikipedia 川中島の戦いは、戦国大名である 武田晴信 (武田信玄)と 長尾景虎 (上杉謙信)の信濃国の北部の制圧をめぐり戦います。 川中島の戦いは第1次から第5次合戦まであり、約12年もの長い間戦いが続きました。 戦国最強の両雄、武田信玄と上杉謙信が12年余にわたり激突した川中島合戦は、現存する史料がほとんどなく、軍記書の『甲陽軍鑑』等が描く内容が定説化してきた。闇に埋もれた戦いの姿と両雄の実像に迫る。 武田軍の本陣に突入した上杉謙信によって、馬上から一太刀浴びせられた武田信玄は、咄嗟に白刃を軍配で受け止めました。2人による一騎打ちは、戦国時代を象徴する一場面として現代まで語り継がれてい … また、『越後の龍』とも呼ばれた上杉謙信は、武田信玄のライバルとしても知られ、川中島の戦いでは5度も刀を交わしています。 永遠のライバル同士であったとされる上杉謙信と武田信玄。 川中島の戦いでは5回もの熱戦を繰り広げました。 歴史に詳しくない方でも、この2人がセットで取り上げられることが多いのはなんとなくご存知ではないでしょうか? そして上杉謙信は、もう一つ旗を掲げている。映画の中でもラストシーンで上杉謙信本隊が、武田信玄の本陣を目掛けて突き進む場面で掲げている旗。それは草書体で書かれた「龍」の文字。この旗は“全軍総攻め”の合図で掲げられる旗なのだ。 いいね、ご訪問ありがとうございます。久々にネタを思い付きました(笑)題して『川中島のクッキング合戦!』先ずは、上杉謙信対武田信玄を対決させます(笑)↓ 謙信『… 上杉謙信と武田信玄が五度にわたって干戈を交えた「川中島の戦い」は、いまでも日本史上の伝説となっている。今回、両家の直系子孫である上杉家第17代当主・上杉邦憲氏(73)と武田家第16代当主・武田邦信氏(68)の初対談が実現。川中島から450年の時を経て、“龍虎”が再び相まみえる──。, ──最後まで決着が付かなかったと言われる「川中島の戦い」だが、実際はどちらが勝ったと思っていますか?, 上杉:領土としては土地を手に入れた武田の勝ちかもしれませんが、上杉は負けたとは思ってない。そもそも謙信公には支配拡大の欲はなく請われて“義の戦い”をしただけです。, 武田:こちらとしては、最も激戦だった第四次の川中島の戦い(1561年)で、最後に勝ちどきをあげたのは武田だ、ということです。武田と上杉では信濃の土地に対する考え方が根本的に違う。甲斐の国というのは何もなく、信玄公は人民を養うために米が育つ肥沃な土地が必要だった。だから村上攻めをせざるを得なかった。, 武田:謙信公は村上に頼まれて戦をしただけで、あそこの領土が必要だったわけではない。, 上杉:だから、考え方の違いです。謙信公は負けたとは全然思っていない。むしろ怪しからん武田を懲らしめたと思っている。村上(義清)ら信濃勢との義は果たしたわけですから、何なら勝ったと思っていますよ(笑い)。, 上杉:それはわからないですね。史料には「(謙信)自ら立ちはだかり」というものもありますが、総大将が、自ら敵陣に乗り込むような危険を冒すかという疑問は残ります。, 武田:ただ、信玄公の軍配扇に傷がついていたことは事実。どうせ本当のところは分からないんだから、謙信公自身が乗り込んできて、3度切りつけたという方が面白いですよね。, 上杉:武将として、どちらが強かったかというと、そこは難しい……。強さと言ってもいろいろある。武力なのか知力なのか他の要素なのか様々ですから。, 上杉:2人は近すぎた。同盟軍で戦ったら最強だったはず。まあ、私はそれでも一番強いのは謙信公だと思っています。. 【信玄vs信長】武田信玄が生きてたらマジで長篠の戦いは勝ってたと思う 1: 2014/06/13(金) 21:19:33.78 ID:ohPnT5h/0 調べれば調べるほど信玄の凄さがわかる 武田 上杉 北条 今川 ご来訪ありがとうございます。拓麻呂です。1561年に甲斐の武田信玄と、越後の上杉謙信が激突した『第四次川中島の戦い』戦国時代屈指の大激戦となった川中島の戦いですが、この合戦の勝者は一体どちらなのでしょうか?武田、上杉がともに勝ちを主張してい ironna編集部 戦国時代 歴史 戦国最強の両雄、武田信玄と上杉謙信が12年余にわたり激突した川中島合戦は、現存する史料がほとんどなく、軍記書の『甲陽軍鑑』等が描く内容が定説化してきた。闇に埋もれた戦いの姿と両雄の実像に迫る。 そもそも武田北条と上杉関東諸将で力は拮抗していたわけだから 武田を味方に引き入れられれば絶対に勝てるはず そもそも謙信は信玄のことを異様に嫌っていて 「信玄潰す絶対潰す」って呪詛みたいな書状 … 戦国史上最大の激戦とも言われる「(第四次)川中島の戦い」名将・武田信玄と、軍神・上杉謙信の激闘・・・真の勝者はどっち?「一騎打ち」の伝説や、「敵に塩を送る」の故事は、全てデタラメ・嘘 … 「上杉謙信」は「越後の虎」や「軍神」などと称され、無類の強さを誇っていました。また、甲冑を着用した状態で埋葬されたと伝えられるほど、上杉謙信と甲冑は切っても切れない関係だったようです。ここでは、甲冑を通して上杉謙信という武将を見ていきます。 坂本龍馬や武田信玄、上杉謙信などが教科書から削除へ 東大教授「コイツら大したことしてないし・・・」 [567462986] ... 歴史は勝者だけのための歴史やもんねえ . この土地は結局、武田信玄が制している。ゆえに信玄の勝ち! 武田家ファンならそう答えるだろう。 しかし、江戸時代まで家を存続させているのは上杉家ではないか。だから謙信様の勝ち! 上杉ファンや直江兼続ファンはそう答えるだろう。 武田信玄率いる武田軍は当時最強と言われ、多くの戦国武将を脅かしました。. そして上杉謙信は、もう一つ旗を掲げている。映画の中でもラストシーンで上杉謙信本隊が、武田信玄の本陣を目掛けて突き進む場面で掲げている旗。それは草書体で書かれた「龍」の文字。この旗は“全軍総攻め”の合図で掲げられる旗なのだ。 好敵手の代名詞といえば、やはりこの2人。 「武田信玄」と「上杉謙信」だろう。 実力に過不足がない、ちょうどよきライバル。両者は、天文22(1553)年8月に川中島(かわなかじま、長野県)にて対峙。そこから足掛け12年もの間、5回も「川中島の戦い」と称して対戦している。 戦国時代屈指の大激戦となった川中島の戦いですが、この合戦の勝者は一体どちらなのでしょうか?, 今回は、いまひとつ勝敗がハッキリしない第四次川中島合戦の勝者はどちらだったのか、独断で所感を述べてみたいと思います。, ※なお、この戦いの段階ではまだ『謙信』と名乗っていませんが、便宜上、一般的な呼称として馴染みのある『上杉謙信』で統一しています。あらかじめご了承ください。, 山本勘助の発案とされる『啄木鳥の戦法』で、上杉方を挟み撃ちにしようとした武田方ですが、謙信に見破らて失敗します。, 朝霧立ち込める中、謙信率いる上杉全軍が、武田軍の目の前に忽然と現れ驚愕する中で戦いの幕が切って落とされます。, 『車懸かりの陣』に関しては、様々な解釈がありますが、霧で視界が悪い中、この陣形をみた信玄は、おそらく魚鱗の陣か何かと勘違いしたのでしょう。, そして、車懸かりも、その名が示す通り、円形の塊のような陣形であった可能性が高いです。, この円形の先端部を、霧により視界が悪い中で見た信玄は、上杉軍が固まって突っ込んでくるものと思い、自軍を鶴翼の陣に変更したのではと思われます。, とっさの判断で、鶴翼を敷いた判断力は、さすが孫子を究めた武田信玄と言いったところですが、残念ながらこれが裏目に出て、武田軍は鶴翼の両翼から崩されて行きます。, そして、この時に、信玄の本陣目掛けて単騎で突っ込んできた謙信の一刀を、信玄が軍配で受け止めるという名シーンが演じられます。, このよう中で、武田のNo.2とも言える信玄の弟『武田信繁』、そして挟撃(啄木鳥の戦法)を提案した『山本勘助』、譜代家臣の『室住虎光』など、武田軍は多くの犠牲を払うことになります。, 大ピンチに陥った武田軍ですが、ここで二分していた別動隊が駆けつけ、一気に形勢逆転となります。, なので、この戦いだけを見れば、川中島周辺の領有を守り切った信玄が勝ちと言えると思います。, しかしながらこれは、最終的に戦場に残っていたのが武田軍だったというだけで、戦の内容を見ると、決して武田の勝ちとは言い切れない部分があります。, どうも信玄は、壊滅的な被害を受けた合戦の後は、その場にとどまり続ける傾向があります。, 板垣信方や甘利虎泰が討ち死にして散々な目に合った上田原の戦いの後も、信玄は戦場に留まっています。, よく、最終的に戦場を脱したのが上杉だから、武田の勝利とする考えも耳にしますが、僕はそうは思っていません。, なので、戦の後に戦場に残っていたからと言って、勝利とは言い切れない部分もあるのではないでしょうか?, 僕は、長期的に見た場合、第四次川中島の戦いにおける勝者は、上杉謙信だと考えています。, もしかしたら誇張が入っているかもしれませんし、戦国時代の前後期、合戦の規模などにもよりますが、この数は多すぎます。, 犠牲を少なくしたいからこそ、城攻めで降伏を促したり、和平の仲介を朝廷や有力大名に依頼するのです。, この頃は兵農未分離のため、犠牲者の数は国力の低下に直結しまから、犠牲の数をいかに少なく勝利するかが物凄く重要なのです。, さらに、武田軍は一門である弟の信繁や、譜代の室住虎光など、重臣級の武将を失っています。, あまり知られていませんが、他にも信繁の長男『義勝』、信玄の孫『葛山安信』など、多くの一門や重臣クラスを多く亡くしています。, 戦国時代は、今より遥かに『家』という概念が重要視されていたので、戦場で一門衆が犠牲になることは避けねばなりません。, 事実、信繁を失った武田は、この後に安定性を欠き、信玄は長男を自害させたりもしています。, そう考える一方で、合戦の犠牲者、そしてその後の歴史を見ると、謙信の勝利ではないかとも考えています。, 川中島だけを見ると勝ったように見える信玄ですが、多くの犠牲を払いすぎた武田家は、日本史と言う歴史の中で見ると敗者の側になってしまうのかなと感じます。, 一方で、川中島では負けたように見える謙信は、歴史的には勝者だったのかなと、僕は考えています。, そのような結果であることも影響し、川中島合戦は歴史的にあなり影響のない、単なる一地方の局地戦のような扱いを受けることもあります。, これだけの数を動員した戦いには、それなりに戦費もかかりますし、双方ともかなり本気で戦に臨んでいることが窺えます。, 合戦とは、外交政治の一手段であり、戦国時代と言えども、単なる領土欲だけで、戦がやりたい時にやれるわけでは無いのです。, もし、義元が討たれた後、即座に南への侵略を実行していたら、歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。, 元就も、大内義興と尼子経久という大物に囲まれていましたが、彼らは元就よりも世代が上なので、元就の円熟期には世を去っていました。, 義元が討たれた後、即座に南への侵略を実行していたら、歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。, 第四次川中島の戦いとは、信玄の覇業を狂わせた、そしてその後の戦国史を変えた、非常に意味のある一戦だったのではないかと考えています。, そして、第四次川中島の戦いとは、武田家の運命を狂わせ、戦国時代の趨勢にも大きな影響を与えた大激戦と言えるのではないでしょうか。. 川中島の戦いは、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信が、信濃(長野県)の川中島において1553(天文22)年から1564(永禄7)年の間に計5回に及んで対峙した合戦の総称である。 今日、長野県の川中島の合戦地に行ってきました。武田信玄と上杉謙信はどちらが勝利したのでしょうか?ビデオで合戦のことを説明してましたが、結局明確な勝者がわかりませんでした?川中島の合戦は全部で5回ありますが、代表的なのは第4 しかも、それまで武田家の背後を脅かしていた関東の北条氏は、信玄公との同盟に応じて援軍を派遣することになり、もう一方の上杉謙信公は石山本願寺の指令を受けた信徒が加賀国(石川県)から上杉氏をけん制した為、動けませんでした。 戦国時代にその名を轟かせた武将「武田信玄」と「織田信長」。正反対のタイプといえる2人は、お互いに注目し長い間友好的な関係を築いていました。対決を避け続けた武田信玄と織田信長は、結局一度も直接戦うことはなく、決着がついたのは信玄の死後「長篠の戦い」でした。 2019.03.28 (ssys様)Sachico様 上杉謙信と武田信玄が五度にわたって干戈を交えた「川中島の戦い」は、いまでも日本史上の伝説となっている。今回、両家の直系子孫である上杉家第17代当主・上杉邦憲氏(73)と武田家 … 戦国時代 一騎打ち【武田信玄VS上杉謙信】結局どちらが勝者?川中島の戦いについて. 武田信玄と上杉謙信は、戦国時代に活躍(かつやく)した戦国大名です。戦国時代は、室町幕府の将軍・足利義政(あしかが・よしまさ)のあとつぎをめぐって全国の大名が争った「応仁(おうにん)の乱」に始まります。 信濃の大部分を制圧した信玄は、残りの北信濃一帯の獲得を目指して1553年に侵攻します。一方、村上氏や高梨氏の救援要請を受けた謙信は、このまま自国に被害が及ぶことを懸念して反撃を開始。千曲川と犀川に挟まれた地帯「川中島」にて信玄と対峙し、見事武田軍を討ち破ります(第一次合戦)。 … ここに及んで、上杉景虎は武田晴信討伐を決意します。 ついに天文22年(1553年)8月、自ら軍を率いて信濃国に出陣。 ここから上杉景虎(謙信)と武田晴信(信玄)の川中島の戦いがはじまっていきます。 大名行列の編成様式は、上杉謙信の「車懸り」に起源がある。 永禄4年(1561)9月10日、上杉軍は信州川中島で武田信玄の軍勢と戦い、圧倒的な戦果を挙げた。上級指揮官を多数討ち取ったのだ。 このとき謙信が使った戦術が「車懸り」である。 長野盆地の南に犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)が合流する地点があり、そこから広がる土地を川中島と呼んでいました。 その土地は越後と信濃を結ぶ交通の要所で、そのうえ土地が豊かで米や麦の収穫高が多く、経済的にも重要な拠点でした。 武将たちがこの土地を欲しいのは必然ですね。 そのため、信玄と謙信はこの地を巡って長い間争ってきたというわけなのです。 元々は村上義清という豪族がこの地をまとめていたそうですが、信玄の侵攻を受けてこの地を追い出されてしまいました。 困り … 武田軍VS上杉軍 川中島の戦い.